ヨハネ福音書 8章31~38節
2019年10月10日
(内容)
- イエスは「真理はあなたがたを自由にする」と教えられ、さらにイエスは、罪の奴隷から私たちを自由にするとも教えられた。
(黙想)
- 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とイエスは教えられた。イエスはこの言葉をイエスを信じたユダヤ人たちに語られた。イエスの真意としては、イエスを信じる者は、イエスの言葉にとどまり、イエスの弟子となる、ということだと思う。イエスを信じる者はイエスの弟子、ということになる。イエスの弟子であると自覚している信仰者はどれほどいるのだろうか。イエスの弟子とは、信仰者の中でも特別の人という理解があるのではないか。
- イエスの言葉にとどまるとは、どういうことだろうか。いくつかの聖書の言葉を大切にして生きることがイエスの言葉にとどまることなのか。それとも日々聖書に親しみ、御言葉によって生きようとすることがイエスの言葉にとどまることなのか。人それぞれかも知れない。しかし、聖書に親しみ、聖書に基づいて物事を考え、判断し、行動する人がイエスの言葉にとどまる人だと僕は理解し、そのように生きることに努めている。
- 「真理はあなたがたを自由にする」。僕の大好きな言葉だ。福音は、私たちを自由にする、だから福音である。私たちを自由にすることができないものは福音ではない。つまりよい知らせではない。そう思う。
- 「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。罪を犯さない人はいないから、人は皆罪の奴隷だとイエスは語ったことになる。自分は罪深いから罪を犯すと考えている信仰者は多いと思う。自分は罪の奴隷だから罪を犯すと考える人はどれくらいいるのだろうか。もし自分が罪の奴隷と考えるなら、このままでいいとは思わないだろう。もし自分は罪深いと考えるとき、でもイエスは罪を赦してくださると考えてしまう。すると自分は罪深いと考え罪を犯すことから抜け出ることができない。
- 「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。イエスは私たちを罪の奴隷から解放し、自由にしてくださる方である。
- 35~36節の論理はわかりにくい面がある。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)36節。御子は私たちを罪の奴隷状態から本当に自由にすることのできるお方である。
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)31節。イエスの言葉にとどまるならが、その人はイエスの弟子である。
- (教え)34節。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日のデボーションを感謝します。イエス様は、私たちを本当に自由にしてくださる方です。そして私たちを罪の奴隷状態から自由にしてくださるお方です。でもそのことがどれほど信じられているでしょうか。また人は罪の奴隷状態からの解放、自由をどれほど求めるのかとも思います。罪の奴隷状態にあるのに、私は罪深いものです、と語り、イエスにより罪赦されていることを感謝しますと口で言えば、ある意味、事はそれでおさまります。そこには、罪から自由にされることへの恐れもあるかもしれません。それがどういう状態であるのかわからないし、どこかへ連れて行かれるという不安があるかもしれません。でもそれは結局、ぬるま湯に浸り、そこからでることができない状態にいることであり、福音を聞いていることにはなりません。
- となれば、罪から自由にされた人はその幸いを伝えていく必要がありますね。私自身は自由にされたと信じています。罪から自由にされた幸いを証しすることの大切ですね。ブログにて、証しを書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 罪から自由にされた証しをブログに書く