聖書 ヨハネ福音書8章21~30節
2019年10月8日
(内容)
- イエスはご自分が上のもの属し、ユダヤ人たちは下のものに属すると語る。またユダヤ人たちがこの世に属しているが、自分はこの世に属していないと告げる。そしてユダヤ人たちに「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と三度語る。
(黙想)
- イエスはご自分について色々な語り方をしている。この箇所では、自分は上のものに属し、この世に属していないと語る。またご自分をお遣わしになった方がおられることについては、これまでも繰り返し語ってこられた。
- この箇所で印象的なことは、イエスがユダヤ人たちに三度「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と語られたこと。もし私たちが誰かから「あなたは罪のうちに死ぬ」と言われたら、私たちは感じるだろうか。どうするだろうか。おそらく、私たちに語った人を否定し、その言葉を聞き捨てにするだろう。あの人の信じる信仰はあやしい、などと語って無視するにちがいない。
- 「罪のうちに死ぬ」とはどういうことだろうか。死後の自分の運命が不吉であることを示している。具体的にどういうことなのかはわからないが、死んだ後、好ましくない事態に陥ることを示している。
- イエスは10章でこう語っている。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」。永遠の命を与えられない者の滅びを語っている。
- 「滅び」という言葉を聞いても、どこか真剣に受けとめられない思いがある。本当だろうかとの思いがある。自分の周囲には、イエスを信じない人たちがいて、彼らが皆滅びるということを前提にして、僕は生きていない。未信者の家族が滅びるとは真剣には考えていない。そんな自分がいることは確かである。「あなたは罪のうちに死ぬ」と未信者の人に語っても、取り合ってもらえないだろう。
- 他方、かつて自分の罪を思い知らされたことがある。そのとき神の裁きを受けて当然だと思ったことは確かであり、その時、自分は死んでも仕方がないと思ったことがある。この場合の神の裁きはこの世における死であり、生きることが許されないというものだった。その結果、イエスを救い主と受け入れた。
- 私は神を信じる者であり、神の存在をリアルに感じて神の存在を自明と考えるものではない。私はあくまでも神を信じる者。そして同じように、罪を犯す者の滅びを信じる者であり、滅びを絶対に確かなことと考えるほどに、滅びをリアルには感じてはいない。神の国のすばらしさを信じる者であり、その素晴らしさをリアルに感じているわけではない。
- 「あなたたちは罪のうちに死ぬ」とイエスが語ったことは真理として受けとめる。30節で多くの人々がイエスを信じたとある。「あなたたちは罪のうちに死ぬ」との言葉が影響したのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエスは、御自分を信じない者たちが「罪のうちに死ぬ」ことを警告する方である。
- (御子)イエスは、上に属し、下に属さず、この世に属さない方である。
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)「あなたたちは罪のうちに死ぬ」という言葉を受けとめること。
- (勧め)イエスを信じること。イエスを信じるとは、「私は・・・・である」と語られたイエスの言葉を信じ、イエスがそのようなお方と信じることである。8章の12節では、「わたしは世の光である」とイエスは語られた。イエスに従う者は「暗闇の中を歩かず、いのちの光を持つ」と教えられた。6章では、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と語り、このパンを食べるならば、永遠に生きると語られた。もはや、罪のうちに死ぬのではない。
(与えられた導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「あなたたちは罪のうちに死ぬ」との言葉は不吉な言葉です。しかし救いに招く言葉です。私自身は救いに入れられ、感謝です。このイエス様の言葉が心に残ります。人々を救いに招きたいとの思いがあります。10月27日の礼拝奉仕があり、召天者記念礼拝となっています。亡くなった方たちの遺族が集まるようです。罪のうちに死ぬ人たちを救いへと招く説教をしたいと思います。導いてください。
- また滅びを少しでもリアルに感じたいとの思いがあります。バニヤンの『天路歴程』を読みたいと思いました。今読んでいる品を読み終えたら、これを読むことにします。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 説教の導きを祈る。
- 天路歴程を読む。