ヨハネ福音書 8章39~47節

2019年10月17日

(内容)

  • イエスを信じようとしないユダヤ人たちとイエスとの対話。イエスを信じないユダヤ人たちは、神に属しておらず、その父は悪魔だとイエスは告げる。

(黙想)

  • イエスを信じようとしないユダヤ人たちは、自分たちは神を信じており、その神は父であると語っている。イエスもユダヤ人も共に神を父と呼ぶ。ユダヤ人たちはイエスが父なる神から遣わされたことを認めない。そしてイエスの言葉を信じない。どうしようもない深い溝がある。
  • ユダヤ人たちは、自分たちの信仰理解(神学)に固執している。神は唯一。イエスが自分を神とするとき、それを否定する。イエスの言動を見てもイエスを認めることができない。イエスが語る神はイエスをこの世に遣わす神であるが、ユダヤ人はそれを認めない。ユダヤ人はイエスの語る言葉も受け入れない。この段落でイエスは、信じないユダヤ人たちは悪魔を父としていると告げる。さらにユダヤ人たちは神に属していないと告げる。
  • この段落でイエスは、ユダヤ人の不信仰の原因を悪魔に帰している。人が神を信じるか否か、それは単に個人の選択の問題ではないことが分かる。イエスを信じる者は、神があらかじめ定められたものであるとイエスは語った。イエスを信じることができるのは、神の導きのおかげである。そしてイエスを信じないのは、悪魔に導かれてのことである。
  • ただし、人間の意思を無視して神や悪魔が働くわけではない。悪魔が働くスキが私たちにはあるし、私たちに働きかける神の恵みが注がれている。結局、私たちの心がイエスとどう向き合うかである。イエスの言葉を聞いた役人は「今まで、あの人のように話した人はいません」と語っている(7:46)。そこでどうするか、それが分岐点であり、悪魔に導かれるか、神に導かれるか。
  • 自分を弁護しようとすると、弁護というスキに悪魔はつけいる。弁護の代わりに悔い改めるなら、神の導きが与えられる。あるいは自分が納得することは信じるが、納得できないことは信じないという態度も、悪魔にスキを見せることになる。自分を絶対化することは高慢となる。「そんなの信じられるわけないよな」との悪魔のささやきに従ってしまう。
  • 私たちクリスチャンも、聖書が告げることを神の言葉として全面的に受け入れるか、聖書の言葉でも自分が納得できないものは信じないか、二つに分かれる。神に導かれて生きるのか、心のスキを悪魔に狙われて生きるのか。本当に信じるとき、それは行動となって表れる。神に信頼すると言いながら、信頼する行動にためらい踏み切れない人たちがいる。神を信頼することが建前になっている人がいる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは真理を語るお方である。
☆神が求める私たちの生き方
  • (教え)私たちが信じるか、信じないか、の決断をするとき、神の導き、あるいは悪魔の導きが背後にある。神を信じるように働く力(聖霊の働き)、神を信じないように導く悪しき力(悪魔)の働きがある。

(神の導き)

☆祈り
  •  天の父なる神、私たちを憐れんでください。イエス様のお言葉を真理として信じたいと思いつつ、信じられない、との思いもあります。そこには信じたらどこへ連れて行かれるのだろうかとの不安、恐れがあります。また現代人としてそんなことを信じるのはいかがなものか、信じられるはずがない、などという思いもあります。
  • 「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリント一2:9)との御言葉を心に刻むことができるように導いてください。そもそもイエス様の十字架も、十字架で死んだ人が救い主という教えも常識に反し、信じがたいことです。でもあなたの導きによって信じることができました。私に柔らかな心、素直な心を与え、み言葉を信じる者としてください。
  • 聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。御子を信じない者は滅びるとあります。イエス様を信じないでも自分が滅びるなどとは考えず生きている人が多数います。私たちも本気で信じていないので伝道が盛んにならないのではないか、と私は考えています。
  • イエス様を信じない人は滅びるとの御言葉を心から信じ、信じない人たちの救いを真剣に祈り求める人としてください。
☆与えられた導き
  • イエス様を信じない人たちの救いを祈り続ける。