列王記下 9章

2017年9月13日

(内容)

イスラエルのヨラム王の部下イエフは、「あなたをイスラエルの王にする」との預言者の言葉を受けました。そして主君を裏切り殺し、イスラエルの王となります。ヨラムは亡きアハブ王の息子であり、アハブ王に対する神の裁きが実現したことになります。

(黙想)

  • 神は預言者を通しイエフにイスラエルの王になるとの約束を与えました。約束と同時に命令もありました。それは亡くなったアハブの家を断絶するという命令です。アハブの家系に属する者を絶滅させ、アハブの家を絶やすというものです。神はアハブ王の存命中、アハブに家系を絶やすとの裁きの宣告をしていました。今や、それが実現するのです。神さまが語ったことは必ず実現することを教えられます。
  • ここにも「約束と命令」のパターンがあります。神さまの約束はしばしば命令を伴います。アブラハムに対して、モーセに対して、ヨシュアに対して、ダビデに対して、主イエスもです。信仰とは神の約束を信じ、その命令に従うことと教えられます。
  • イエフはイスラエルの王になります。これまでイスラエルの王は、主の目に悪とされることを行い、神から王座を負われています。イエフは神の指名によって王となります。彼は、アハブの家を撃つことが神の裁きであることを知っています(35節)。ヨラム王の遺体をナボトの所有地の畑に捨て、神の裁きの実現の一端を担います。アハブ王の妻イゼベルを死に追いやり、神の裁きの一端を担います。アハブの妻イゼベルの亡骸が犬に食べられたことを見たとき、「主の言葉の通りだ」と彼は言いました。
  • 彼は主なる神について体験しました。彼を王にした方、アハブ家に対する神の裁きが実現したこと、自分もその裁きの一端を担ったことを自覚しています。彼はどんな王になるのかと思います。主なる神に従順な王になるのか、それとも、主なる神を知っているにもかかわらず、主の目に悪をされることを行うような王になってしまうのか、今後の展開が楽しみです。
  • このイエフのことを思うと思い出す主イエスの言葉があります。「それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず」です。列王記を読んでいると、神が王を立て、退けます。神の働きを見聞きしているのに、神を畏れ敬わない人々の姿を見ます。アハブ王は、エリヤがバアルとアシラの預言者と対決したとき、天から火を降していけにえを燃やしたのは、主であることを見たのに、異教の神々を礼拝するのをやめませんでした。私たちも神さまについて、見たこと、聞いたことをきちんと受けとめているのか、と思わされます。日々の生活の中で神さまの御手の業を見過ごしていないか、説教で聞いたこと、デボーションで教えられたことなど見過ごしていないか、自らを探る必要があります。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • 神の語る言葉は必ず実現します。神はアハブ家に対する裁きを実現させました。神は侮られるべきお方ではありません。
☆神が求められる私たちの生き方
  • 神の約束を信じて生きる
  • 神について見聞きしたことに注意して心に留める

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、あなたはイスラエルの王を立てられる方です。イエフは、「あなたはイスラエルの王になる」との約束を受けました。これは現実的な約束です。信じやすい約束です。約束の実現まで時間がかかりません。あなたの約束はいつも現実的、すぐに実現するとは限りません。アブラハムは、子孫が増え、神が与えられた土地に住むという約束で、人間の思いを越えた、途方もない約束と言うことができます。彼が何故これを信じることができたのか、この約束に人生を賭けたのか分かりません。でも彼はあなたの約束を信じて、新たな人生に踏み出しました。
  • 今度の日曜日は礼拝説教を行います。今準備中です。説教の中で、「神の約束は信じるに足りるのか、どうしたら信じることができるのか」と一つのテーマとしています。あらためて神さまの約束を信じることについて思いを深めてみたいと思います。私たちも、キリストの再臨とか、最後の審判とか、人間の思いを超えた神の約束が与えられていて、これをどう受けとめるかは大きな課題です。途方もない約束をどう受けとめるのか、思いめぐらします。説教の聴衆には、素直に信じる人がいれば、疑い深い人もいますので、疑い深い人にも届くように神さまの約束を信じるように励ますことができたらと思います。
(与えられた導き)
  • 神の約束について黙想する。自分自身懐疑的なところがあるので、自分を説得できるように黙想してみる。