ヘブル人への手紙12章1~13節
2018年2月1日
(内容)
気力を失い疲れ果てていそうな(手紙の受取人)に対して、イエスを見つめ、イエスのことを考えながら、罪を捨て、忍耐強く歩むことが勧められています。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)愛する子を鍛えられる方です。
- (御子)信仰の創始者であり完成者です。
- (御子)十字架の死を耐え忍ばれた方。ご自分に対する罪人の犯行を忍耐された方。
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競争を忍耐強く走り抜くこと。
- (勧め)信仰の創始者であり完成者であるイエス様を見つめること。
- (警告)血を流すほど罪と戦い、罪に抵抗することをしていないこと。
- (警告)霊の父の与える鍛錬を軽んじること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を読んで心に残ったのは、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめ」という言葉です。「見つめ」で著者はイエスの何を見つめよと言っているのでしょうか。また3節では「ご自分に対する罪人たちの犯行を忍耐された方のことを考えなさい」とあります。イエスのことを見つめ、考えなさいと促されます。
- 今の私はどのようなイエスを考えたら良いのでしょうか。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」を見つめることが勧められているような気がしました。
- この手紙の受取手と私の状況は違いますので、私が見つめるべきイエス様のお姿は、どのようなお姿なのか、すぐには思い浮かびませんが、「信仰の創始者であり完成者であるイエス」という言葉は、信仰の歩みの原点に立ち帰らせると共に、老いた信仰者としては信仰のたどり着く先がどこなのかを知りたい、と思わされました。これは少し時間をかけて取り組むべき課題と考えますが、まずこの手紙ではイエス様をどう見ているのか、これを考えることから始めます。
- 自分に定められている競争を走り抜こうと勧められています。信仰の道は他者と競って歩む道ではないと思います。ただ私たちはゴールを目指して走るので、定められた競争と書かれているのだと思います。私にとって定められた道とは、以下の点かと思います。
・新しく開設したサイト(御言葉に生きるための提案)の充実
・娘家族に仕える
・教会に連なる信仰者として歩む
・信仰を深めて老いを生きる
信仰を深めるために、今ルターの『キリスト者の自由』、アウグスティヌスの『告白』を読んでいます。今日、それぞれに一時間割いて学びたいと思います。
☆与えられた導き
- 学びのために時間を取る。
- ヘブル書はイエスをどう見ているのか、書き出す。
☆実践 ヘブル書におけるイエスについて
関係聖句について
2:9~10
ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
3:2
モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
4:14~15
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
5:7~9
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
7:25
それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
9:14~15
まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
9:26
もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
12:2~3
信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
13:8
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
1.イエスは誰か
救いの創始者(2:10)
大祭司(4:14)
神の子(4:14)
永遠の救い源(5:9)
新しい契約の仲介者(9:15)
信仰の創始者また完成者(12:2)
2.イエスは何をしたのか
数々の苦しみを通して完全な者とされた(2:9~10)
イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました(3:2)。
私たちと同様試練に遭われた(4:14~15)
多くの苦しみによって従順を学んだ(5:7~9)。
常に生きていて、人々のために執り成しておられる(7:25)
自分をいけにえとして献げられた(9:14~15、26)
私たちの罪を取り去ってくださった(9:26)
十字架の死を耐え忍んだ(12:2~3,13:12)
3.イエスに対する私たちの態度
イエスに対して従順になる(5:7~9)。
イエスを通して神に近づく(7:25)
私たちの罪を取り去ってくださった(9:26)。罪を取り去られた者として生きる。
信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる(12:2)
御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考える(12:3)。
私たちを聖なる者としてくださったことへ感謝し聖なる者として生きる(10:10,13:12)
イエス様は信仰の創始者として何をしたのか。
イエス様は信仰の完成者として何をしたのか。
信仰者として生きるとはどういうことなのか。
イエス様は神さまに従順を尽くし、完全な者となられた。5:8~9
イエス様は私たちを聖なる者とし、私たちを永遠に完全な者としてくださった。10:14