ヘブライ人への手紙 10章1~18節
2018年1月23日
(内容)
旧約のもとで祭司がいけにえを献げることとキリストがご自身をいけにえとして献げることの対比・比較がなされています。御子キリストの犠牲により私たちは聖なる者とされたこと、さらに御子は私たちを永遠に完全な者とされました。
(黙想)
- 古い祭司制度のもとでは、祭司がいけにえを献げても神に近づく人を完全な者にすることができませんし、罪を取り除くこともできません。しかしキリストは神に近づくものを聖なる者とし、永遠の完全なものとするとあります。先ず、両者の違いは非常に大きいです。
- 前者の場合、罪を取り除くことはできず、結果として人は同じ罪をくり返すことになります。大祭司が年に一度すべての民に犠牲を献げる時、人は自分が犯した罪を自覚します。
- 「完全なものにする」とは何を意味するのでしょうか。まず思い出すのは、キリストご自身が多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたことです(5:8~9)。そしてキリストは、ご自身に従順な人に対して、永遠の救いの源になられました。キリストは神に対する従順を尽くし完全な者となられました。そしてキリストは私たちを完全な者にしてくださいました。完全な者とは、神さまに従順な人、生ける神さまを礼拝する人(9:14)と考えてよいと思います。その時大切なことは、私たちは常にキリスト者になりつづけることです。私たちは洗礼を受けキリスト者にされましたが、それは出発点に立ったということです。私たちはできあがった信仰者になったわけではありません。信仰者の歩みを通して、私たちはキリスト者になりつづけます。キリスト者としての実質を身につけていきます。言い換えれば、成長します。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)10節。御子の犠牲により私たちは聖なる者とされました。御子は私たちを聖なる者としてくださる方です。
- (御子)14節。御子は、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださる方です。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、御子の犠牲により私たちは聖なる者とされました。さらに永遠に完全な者とされたとの驚く知らせを受けました。私は自分が聖なる者とされたことは信じて歩んできました。罪から清められ、世間の人とは区別されて神さまに属する者、聖徒として信仰に生きる者とされたことを喜び感謝し、御言葉に立って歩む努力をしてきました。
- 完全な者とされることがどういうことなのか、わかりにくいですが、あなたに従順になり、生ける神さまを礼拝するようになることであるなら、このことを自覚して歩みたいと思います。
- 牧師の務めを引退し、礼拝に出席して説教を聞く者となりました。一人の会衆として礼拝に参加する者として、生ける神さまを礼拝するとはどういうことかと考えます。もちろんあなたのご臨在を信じて礼拝は献げます。
- 一昨日の礼拝を終え、私の心に何が残ったのかと思います。何が印象に残っているのか、何を恵みとして受けとめたのかと考えます。礼拝に出席したことでわたしの内に何が起きたのでしょうか。生ける神さまを礼拝して何も起こらないことがあるのでしょうか。一つだけ起きていることがあります。それは説教された聖書テキストの一部を思いめぐらしていることです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14:34)、この御言葉です。主イエスは何を悲しまれたのでしょうか。それを思いめぐらしています。「死ぬばかり」とはどれほどのことなのでしょうか。主は何を悲しまれたのでしょうか。夜寝る前に、思いめぐらしています。
- あと一つ、讃美歌を歌っていて、歌詞が心に留まりました。心に留まったことは覚えていますが、どんな歌詞であったのかは忘れてしまいました。どんな歌詞が心に留まったのか、確認します。また主イエスの悲しみについては、時間を取って思いめぐらしたいと思います。
(与えられた導き)
- 讃美歌の歌詞を確認する。
- 主イエスの悲しみについて思いめぐらす。
(夕べの黙想)
・讃美歌は、讃美歌8番でした。
かみにたよる民 つみと死に勝ち
ともによろこびて 代々にたたえよ
みいつたぐいなく めぐみつきせぬ
かみの大御名を もとびと讃(ほ)めよ
「罪と死に勝ち」。これが心に留まりました。ヘブル書のディボーションで、イエス・キリストの犠牲は、罪を取り除く、つまり罪に勝利させる力を持つものであることを教えられたこと、しかし多くの信仰者は罪に勝利できるとはあまり信じていないようなので、心に残りました。
・キリストの悲しみについても思いめぐらしましたが、キリストは何を悲しまれたのか、さっぱり分かりませんでした。