ヘブライ人への手紙 2章14~18節
2017n年12月20日
(内容)
主イエスは血と肉を備えられた。それは死の恐怖のために一生涯奴隷となった者を解放し、また試練を受けている人たちを助けるためであった。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)人となり、血と肉を備えられた。
- (御子)死を司る者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にある人を解放する方。
- (御子)民の罪を償うために、神の御前において憐れみ深い忠実な大祭司である。
- (御子)ご自身試練を受けて苦しまれたので、試練を受けている人を助けることができる方。
☆神が求める私たちの生き方
- (約束)死の恐怖の奴隷状態にある人は解放される。
- (約束)試練の中にある人は、主イエスが助けてくれる。
(黙想)
救い主はなぜ、人となったのかが説明されている。主イエスは試練を受けて苦しみ、死なれた。主イエスは人と同じ経験をなさり、試練の中にある人を助けることができる。主イエスは高みから人を救うのではなく、人のところまで降りてきて人を救われるのである。
主イエスはなぜ死の恐怖の奴隷状態にある人を解放し、試練を受けている人を助けることができるのか。主イエスが自ら死に、また試練を受けて苦しまれ、我々に、死んでも大丈夫、試練を受けても大丈夫とメッセージを発しておられる。死の中にあって、試練の中にあって、主イエスと一つになる、そこに救いがある。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、今日の聖書の箇所に、かつての私は驚きを覚えました。主イエスは死の恐怖の奴隷状態にある人を解放すると書かれていたからです。私は自分も解放されたいと願ってきました。どのようにして解放されるのか、その道筋を尋ねてきました。そして主イエスはどのようにして私たちを解放してくださるのか分かりました。うれしく感謝です。私が辿った道筋を文章化し、証しの文としたいと思います。
☆与えれた導き
- 死の恐怖からの解放のプロセスを証しとして文章化する
<死の恐怖からの解放のプロセス>
(1)死の恐怖の奴隷
幼い頃に祖母が亡くなり、人は死ぬことを知った。そして死んだらどうなるのか分からず、自分の存在が消えてしまうことにとてつもない恐れを感じた。言い換えると、自分が世界から見捨てられる恐怖である。「死」はできるだけ考えないようにした。しかし夜の闇の中で、自分の死を思うと恐怖に捕らわれた。
(2)永遠の命を知る
信仰者となり、死を越える希望を知った。永遠の命が与えられること、あるいは神の国に迎えられること。多くの宗教が彼岸の希望を語るが、その希望の根拠はあいまいだと考える。人間が作りだした希望でしかない、しかしキリスト教の場合は、キリストの復活が死を越える希望の根拠となると考えた。
知識として頭では、死の恐怖から解放された。しかし俗に言う「腑に落ちる」ということがない。頭では分かるが、しかし、という状態。
(3)何が真理か
信仰を持つ以前は、「死んだらおしまい、自分の存在がなくなる」ことが本当だと考えていた。死者は二度と姿を現さないので、「死んだらおしまい、自分の存在がなくなる」、これが真理だと思っていた。
信仰を得て、神の言葉こそ真理だと考え、神の言葉・聖書は、死んだらおしまい、存在は消えてしまうなどと教えていないことを知った。これまでの経験が告げることが真理なのか、聖書の告げることが真理なのか、どちらが真理なのか、決着をつけた。僕は聖書の言葉を真理とする立場に立ち、ようやく腑に落ちた。聖書を真理とする立場に立つ以上、日常の生活において、聖書を土台として物事を考えるということが前提となる。物事を決める時、常識や経験、人の考えよりも、聖書はどう言っているかを優先して物事を考えるようになった。
(4)主イエスとひとつ
これは比較的最近のことであるが、目からうろこが落ちる経験をした。主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られた。人の罪を贖うために、主イエスが神から見捨てられる死を遂げられたことは、何度も説教で語ってきた。
以前から死の恐怖の正体は、神から見捨てられることにあると考えるようになった。主イエスは十字架の上で神に見捨てられる死を遂げられた。主イエスは神に見捨てられる恐怖を十字架の上で味わわれた。自分が小さな頃に味わった恐怖を、すでに主イエスが味わっておられたことを悟った。これが目からうろこの体験。主イエス自身が神に見捨てられる恐怖を抱いて亡くなられたのだから、死を恐れて死ぬとしても、それは主イエスの後に続くことなのだと考えることができた。死においても、我々は主イエスに従うのである。死という試練をすでに主は味わっておられた。主イエスは十字架の死において、神に見捨てられる恐怖の中で、なお神に向かって祈られた。ここに死の恐怖からの解放があると知った。自分が神に結ばれている、それを信じるところに解放がある。主イエスとひとつになる、そこに解放があると知った。