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(内容)
- 主なる神の預言者エリヤとバアルの預言者450名の対決が語られます。イスラエルの民は、主を信じるか、バアルを信じるか迷っています。そこでイスラエルの人々を主に立ち帰らせるために、対決がなされます。その内容とは、薪の上に雄牛を裂いたものをのせ、火をつけずにおきます。そこで神の名を呼んで、火をもって答える神がまことの神であるとするという試みです。
- バアルの預言者がいくらバアルの名を呼んでも、何も起きません。しかしエリヤが主の名を呼ぶと、主は火をもって答えました。エリヤはこう祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」(36~37節)。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神はエリヤの祈りに答えて、火をもって答え、いけにえを焼き尽くしました。主なる神は、生きて働かれる神です。
☆神が求める私たちの生き方
- 主こそ神であり、主を神として生きるべきです。それが信仰に生きることです。「主こそ神である」との信仰の告白を行い、その告白にふさわしい歩みをすべきです。それが主を信じるということです。
(神の導き)
☆黙想
- エリヤの祈りに神が火をもって答えたとき、イスラエルの民は「主こそ神です、主こそ神です」と言いました。しかし、この後、イスラエルの民は主なる神を信じ、主を信じる者にふさわしい歩みをしたのかと考えます。
- わが身を振り返り、私自身は主なる神を信じる者としてふさわしい歩みをしているかと考えます。いや、それ以前に、主を神として歩むことはどういうことなのか、答えをもっているのかと考えます。主を神とすることがどういうことかが自覚されていなければ、信仰をもっていると言っても、その歩みはどこかで逸れてしまうことがあるし、場合によっては、主以外のものを神としてしまうことがあるかもしれません。マルチン・ルターは、あなたがいちばん大切にしているもの、それが<あなたの神である>と言いました。
- 今奈良に住んでいます。私の住んでいるところは春日大社に近く、散歩をすると地蔵をよく目にします。人々はその前で祈っているのです。敬虔なのです。日々の生活の無事を祈り、家族が皆元気で過ごすことができるようにと祈っているのだと思います。そして感謝の気持ちも表しているのです。
- この人たちの信仰と私たちの信仰のどこが違うのでしょうか。この人たちの祈りと私たちの祈りのどこが違うのでしょうか。確かに、「罪の赦し」を神さまからいただいて生きるという点で、私たちとは全く違うことは明らかです。しかし私たちの歩みにおいて「主を神としている」ことが、どのように現れているのでしょうか。
- 私たちがエリヤの物語を読み、「主こそ神です」とイスラエルの人々が告白したのを読んでも、私たちは生ける神を目の当たりにしているわけではありません。イスラエルの人々と共に「主こそ神である」と告白できるわけでもありません。
☆与えられた導き
- 自分は、主を神とすることがどういうことかをどのように自覚しているのか、顧みる。
☆実践
- 私はどのように主を神としているのか
- 主なる神は人格的な神であり、私たちに呼びかける神であるので、主を神とすることは、その呼びかけに答えることである。信仰とは、神との交わりに生きることであり、言い換えると神を愛して生きることである。愛とは、交わりに生きることへの意志である。
- 主の呼びかけをどこで聞くのか。聖書を読み、そこから呼びかけを聞いている。聖書を通し、神はご自身がいかなる方かを教えてくれる。また私たちがどのように生きるべきかを教えてくださっている。神がいかなる方かが分かれば、どのように神に向かうことができるかが分かる。聖書を読み、神が求める生き方をどのように実践するか考えて、実践する。これらによって神の呼びかけに答えることができるし、そのような努力をしている。
- 私が大切にしているのは、神の約束である。主なる神は私たちに約束を語り私たちを祝福する方である。罪の赦しも永遠の命も、神の約束である。神の約束を杖として信仰の旅路を歩む。基本的に神の約束には命令が伴っている。アブラハムに対する約束と命令(創世記12章1~3節)、モーセに対する約束と命令(出エジプト3章7~10節)、ヨシュアに対する約束と命令(ヨシュア記1:2~9)、ダビデに対する約束(サムエル記下7:8~17)。ソロモンに対する約束と命令(列王記上3:10~14)。新約聖書にも、神の約束、神の命令は沢山書かれている。
- 主を神とすることは、自分が罪を犯す者であることを認めること。即ち、神を忘れ、神のみ心をないがしろにし、自分のことだけを考えようとする罪を自分が犯すことを知り、その赦しを求めて生きること。さらに洗礼を通し、新しい人に生まれ変わったと信じて生きること、聖霊が聖書を通してわたしを教え、わたしを新しい人として生かしてくださることを信じ、新しい人とされて生きること。
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