マタイ福音書5章43~48節 天の父の子となる
2023年11月9日
(内容)
- 天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい。
(黙想)
- イエスは敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいと教えた。なぜそうするのか。それは天の父の子となるためであると理由を語った。
- 敵を愛し、迫害する者のために祈ることは多くの人はできないし、しない。自分のことを敵視し、攻撃する者のために祈ることなどできないというのが、通常の人間の感覚である。しかしイエスは、天の父の子となるために行いなさいと教える。実際イエスも、十字架の上で、自分を十字架につけた者たちについて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないからです」と祈られた。
- 天の父は、人間がどういう態度に出るかによってご自分の態度を変えることがない。善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる。相手の態度によって自分の態度が左右されることはない。これが父なる神である。人間はしばしば相手が自分に対してどう振る舞うかによって相手に対する態度を変える。
- 自分に良くしてくれた者に良くするのは、徴税人でも異邦人でもしているとイエスは語る。ファリサイ派の人々は、徴税人や異邦人を軽蔑していた。彼らを軽蔑するなら、父なる神の子らしく振る舞いなさいとイエスは律法学者たちに教えているとも言える。
- イエスの教えはキリスト者に向けられた教えである。相手が敵であろうと、自分を迫害するものであろうと、愛すべき隣人として接するのである。それは相手に好意を持つことではない。相手を自分の隣人と認め、接するのである。
- しかし人は自分中心的であり、自分の利益を第一とする傾向がある。これを乗り越えるのは簡単ではない。
- イエスは教えた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。自分を捨てる、それが天の父の子となる道である。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とイエスは教えた。隣人よりも自分を愛する自分を捨て、自分を愛するように隣人を愛する自分になるのである。
- 大事なことはどれだけできるかではなく、イエスの教えに従うという姿勢である。できっこないとあきらめるのではなく、また無理なことを命じると反感を持つのでもなく、従うという姿勢を持つこと。そしてその時が来たら、教えに従うことである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>キリスト者が天の父の子として振る舞うことを求める方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>敵を愛し、迫害する者のために祈ること。
- <勧め>どんな人をも隣人として接すること。
(与えられた導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日の主の教えはある意味、むずかしいです。私たちの罪が鋭く問われるからです。「従いたくない」との思いが心の中にあることを知っています。でも天の父なる神の子として生きていきたいです。
- 自分に求められていることは、この教えに従うことが求められた時に、従うことと考えます。この教えに当たり前のように従うことができるキリスト者になることは目指しません。罪がある以上、それは不可能と考えます。教えに従うことが求められる時に従う、そのことを志します。
- 敵が現れたり、迫害されることはあまりありませんが、相手の態度によって自分の態度を変えることは日常的にありえることです。注意したいと思います。
- この48節の聖句を壁に貼って、いつも心で意識するようにしたいと思います。
☆与えられた導き
- 聖句を壁に貼って意識する。