ローマ 6章12~14節(1) 体の欲望に従わない
2023年9月1日
(内容)
- 罪から解放されたのだから、体の欲望に従ってはならない。
(黙想)
- 何かを感じる自分、何かを考える自分、何かを決断し行動する自分。その自分を「私」と呼ぼう。つまり「私」は、何かを感じる感情を持つ。何かを考える理性を持つ。何かを決断する意志を持つ。感情、理性、意志を合わせて心というなら、「私」は心を持っている。「私」と私の心は同一ではない。同様に、「私」は体を持っている。「私」と私の体は同一ではない。私の心も体も「私」の一部である。
- 洗礼を受けキリストに結ばれた「私」はキリストと共に死に、キリストが復活されたように新しい命に生きる者とされた。古い「私」はキリスト共に死に、今の「私」は新しい命に生きる者とされた。
- 「私」は罪から解放されている。キリストに結ばれた「私」は罪を犯したいとは考えない。御心に従っていきたいと考える。
- しかしキリスト者は罪を犯す。なぜか。それは自分の一部として体を持つからであり、体は罪に支配された体だからである。罪は体を利用して、「私」に罪を犯させるように働きかける。「私」が体を持つということは、私には心があり、肉体があるということである。心と肉体は罪の働きかけを受ける。
ガラテヤ 5:19~21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
- 姦淫、わいせつ、好色とされることは性欲と関係する。子孫を残すためには性欲は本能として人間に備わっている。性欲は悪いものではない。しかし度が過ぎれば「姦淫、わいせつ、好色」となって現れる。
- そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみは他者との関係における罪である。人間は自己中心的であり、このような罪を犯す。自分を大事にすることは必要なことだが、度を過ごすと、他者への攻撃が生まれる。そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみとなって現れる。
- 人が罪を犯すのは、そこに喜び、楽しみ、満足があるからである。
- 罪には二つの意味がある。一つは、神に背く行為としての罪。もう一つは、罪を働かすように働きかける力、勢力としての罪である。勢力としての罪は体を介して、私たちを攻撃し、罪を働かせようとする。このことはキリスト者になっても、変わらない。これがあるから罪を犯したくないと思っても罪を犯してしまうことが現実にある。
- キリストに結ばれた信仰者は、この罪の働きかけに勝つことができる。神が味方だからである。キリスト者は恵みの支配下にいるからである。
- 罪を犯したくない「私」、恵みの支配下にいる「私」。私は罪に打ち勝つことができるようになっている。だから体の欲望に従って、罪に体を支配させてはいけない。しかし罪は「体」を通して、私たちに働きかける。これも事実。だからこれを拒否しなければならない。
(聖書の教え)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>体の欲望に従ってはならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたの救いについてあらためて考えます。「私」はイエス・キリストを信じ洗礼を受け、キリストに結ばれ、罪の支配から解放され、恵みの支配の下で、御心に従って生きることを志します。同時に罪はあるいは悪魔は、私の体を通して、罪を犯すように働きかけてきます。
- 私の心には、疑いがあります。「私」は信じる者です。信仰者ですから。同時に私の心には、それは本当かという疑いがあります。この疑いは悪魔が私の心に働きかけて生まれるものです。
- ここで区別をしたいと思いました。人格としての「私」は信仰に生きる者です。神を信じて生きる者です。しかし私の心を通して悪魔が疑いをもたらします。「私」はこの疑いに直面します。「私」は信じる人間です。悪魔が私の心を通して、疑いをもたらし、「私」は疑いに直面します。「私」は疑い深い信仰者ではありません。「私」は信仰に生きる「私」です。罪に支配された体(この場合は心)を通して、疑いが「私」のもとに来ます。これに負けてはなりません。だからこれを拒みます。自分の力でこの疑いに勝利することはできません。まずあなたに祈ります。疑いとの戦いに勝つことができるよう導いてください。
☆与えられた導き
- 疑いとの戦いの勝利を祈る。