マタイ福音書4章1~11節 悪魔の誘惑
2023年5月15日
(内容)
- イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けられた。しかし御言葉によって応対し、悪魔を退けた。
(黙想)
- 悪魔は「神の子なら」と語った。イエスが悪魔の言葉に対応したということは、自分は神の子であるとの意識を持っていたことになる。
- イエスは悪魔からの誘惑を受けるために霊に導かれ、荒れ野に行った。なぜ、荒れ野に行ったのか。霊に導かれてとあるので、それは父なる神の御心であったことが分かる。
- 悪魔はイエスを3回誘惑した。この三つの誘惑は、我々人間には誘惑となる。日々の歩みの中で、信仰のことより目先のことに捕らわれ、目先のことを優先することがある。何か困難があれば、神に助けを求めるが、神を試すような祈りをすることもある。さらには、繁栄は魅力的である。
- 悪魔は人間にとって誘惑となることをイエスにぶつけてきたのか。悪魔はイエスを見くびったことになる。しかしイエスは、私たち信仰者への模範を示されたと考えることはできる。
- それとも、この三つの誘惑は神の子としてのイエスに対する誘惑なのか。そうだとすればどのような誘惑になるのか。
- 五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たす奇跡をイエスは行っている。これは石をパンに変えることに似ている。
- ファリサイ派の人たちからメシアならしるしを見せろと言われた時、しるしを見せることはしなかった。人々の要求に応じてしるしを行うことはなかったが、イエスは病人をいやし、しるしを行っていることは確かである。イエスの行為は人目を引く行為であり、多くの人がイエスのもとに集まっている。神殿から飛び降りるのも人目を引く行為である。イエスは人目を引く行為を行っている。それは神の国の到来のしるしを見せたのである。
- 何がこの誘惑物語のポイントなのだろうか。話しは単純なのかも知れない。悪魔の声に耳を傾け、従ってはならないということかも知れない。イエスは神の子であり、悪魔の言うことはやればできる。神の子なら、という言葉は誘いの言葉になる。誘いにのり、神の子であることを示すことはできるだろう。しかし悪魔の言葉に従う行為に意味はない。悪魔の声に聞き従ってはならない。
- イエスは一つ一つの誘惑に対して、聖書の言葉を持って対応した。すると悪魔は離れていった。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御子イエスは、神の言葉をもって悪魔の誘惑を退けた。
- <御子>御子イエスは、悪魔の声に聞き従うことを拒否した。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>悪魔の誘惑を退けること
- <教え>悪しき思いは悪魔の誘惑と受けとめ、退けること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。主イエスは悪魔の誘惑を退けられました。今悪魔は私にどのような働きかけをしているのかと思います。
- 老いを重ね、生涯の終わりの時が身近に感じられるようになりました。私たちは死を考えるとき、聖書に基づいて考えなければならないことを知ります。そうしないと答えが出ません。あるいは人間的な知恵によって死の恐れを乗り越えようとします。
- 御国に迎えられる希望をできるだけ具体的に明らかにしたいとの思いがあります。時間の関係でなかなか取り組めませんが、取り組みたいと思います。
- 讃美歌で、御国の希望に関する語句に赤線を引いた箇所をピックアップすることにします。
☆与えられた導き
- 讃美歌から、赤線を引いた箇所を拾い出す。