マルコ福音書 15章16~20節 侮辱を受けるイエス
2023年1月7日
(内容)
- イエスは死刑に処せられるためにローマ兵に引き渡された。そしてひどい侮辱を受けた。
(黙想)
- イエスは大祭司の屋敷での裁判、つまり最高法院での裁判で死刑を宣告されたときも、つばを吐きかけられ、殴られ、侮辱を受けた。これはユダヤ人たちからの侮辱である。
- この場面では、ローマ兵からの侮辱。ローマ兵はイエスが死刑を宣告されたので、イエスのことを悪い人間と判断し、愚弄した。
- 他者を侮辱し、愚弄するという卑劣な行為をイエスは受けた。このような卑劣な振る舞いを受けたら人は怒る。自分の尊厳に関わるから。しかしイエスはされるがままであった。イザヤ書53章の言葉を思い出す。
「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」。
- このようなイエスを私たちはどう思うのか。イエスを救い主と信じるのは良い。しかし人間の感覚から言えば、イエスはこのようにみじめな哀れな姿をさらしたのである。
- 使徒パウロは、このイエスに自分を一致させることができた。彼はイエスについて語る。彼は神であるのに、神であることに固執せず、自分を無にして僕の身分になり人となった。それだけではない、人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、十字架の死に至るまで神に従順であった。
- パウロはこのイエスの姿の中に「すばらしいもの」を見たのである。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3:8)。
- 僕はこの侮辱されたまま口を開かず、されるがままのイエスにすばらしいものを見るだろうか。そしてそのイエスのように徹底して低きに下り、神に従順に歩めるだろうか。僕の願いの一つにキリストとの人格的交わりに生きることがある。キリストとの交わりに生きることを願うなら、まさにイエスのように徹底して低きに下り、神に従順に歩むことが求められる。
- 僕の結論は、イエスのように歩む、である。そこで問われるのは、自分の神との向き合い方である。イエスは徹底して従順であった。僕は神を信じ、信仰者として生きているが、心の底には、神は本当にいるのか、という小さな疑いがある。疑いがあるが、それにも関わらず信じて生きるというのが僕のスタンス(姿勢、立場)である。
- そのような僕にイエスは問いを投げかける。そしてイエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。イエスは常に神との関わりに生きている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々の侮辱、嘲り、愚弄されるがままであった。
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>このようなイエスをわが救い主として仰ぎ、神の前に徹底して従順に歩みたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。死刑判決を受け、ローマの兵士から侮辱を受け愚弄される主イエスの姿を見ました。
- 使徒パウロは、この主イエスの姿を見て、心を動かされています。キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを語ります。徹底して低きに下るイエスこそ、すばらしい方であり、この方に倣うことができる、これにまさるものは何もないとのパウロの思いを知ります。私もそのような生き方をしたいと願います。
- 今日は自分のスタンスが問われる思いがしました。上に書いた自分のスタンスは、他のキリスト者にも共感してもらえるスタンスです。しかし主イエスはどう思われるだろうか、と考えます。「わたしは違うよ」と主イエスは言われると思います。このことをさらに思いめぐらし祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 自分のスタンスを主イエスを思い、検討する。