マルコ 12章35~37節 主は、わたしの主
2022年10月11日
(内容)
- 律法学者たちは、メシアはダビデの子と言っていることに対して、イエスは詩編110を引用し、その発言は矛盾しているではないかと問いかける。
(黙想)
- この場面は、イエスと律法学者あるいはサドカイ派の人たちとの論争・議論ではない。イエスが群衆に語りかけている場面である。引用されているのは、詩編は110編。ダビデが聖霊を受けて語ったとイエスは語る。
- 「主は、わたしの主にお告げになった」とある。ギリシャ語聖書では、二つの「主」は同じ言葉が用いられている。しかしヘブライ語の旧約聖書では、最初の「主」はヤーウェ、つまりイスラエルの神を指す言葉が用いられている。しかし「わたしの主」の主はアドニー、上位にある者を指す。王への尊称と言われる。
- この詩編は、ヤーウェなる主なる神は、私が仕える王に告げた。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」。これは王への祝福の言葉である。王の即位の時にうたわれた詩篇と言われる。
- ダビデがこの詩篇を書いたことを文字通りに受けとめると
神なる主は、わたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。
「わたし(主なる神)の右の座に着きなさい・・・」。
- ダビデはメシアのことを「わたしの主」と、あたかも目の前にいるかのように考えている。それなのに律法学者たちはメシアはダビデの子、ダビデの子孫から生まれると考えている。ダビデの目の前にメシアはいるのに、なぜメシアはダビデの子孫から生まれると主張するのか。変じゃないかとイエスは言う。
- 要するにイエスは律法学者たちのメシア理解に対して問題提起をしたと考えられる。イエス自身がダビデの子(子孫)としてメシアとしておいでになったのに、律法学者たちはイエスを受け入れないからである。この場面でイエスは直接律法学者たちに語ってはいない。
- この箇所からは、神の導きをどう受け取ってよいか分からず、デボーションはここでおしまい。