ローマ 3章9~18節 神を探し求める

2022年9月9日

(内容)

  • 使徒パウロは、これまで語ってきたことの結論として、ユダヤ人も異邦人もみな罪の下にあることを語る。言い換えると人間は皆、罪の支配下にある。つまり罪の奴隷であると語る。

(黙想)

  • 罪の支配下にある人間の現実が色々な表現で示されている。注目したいのは、神を探し求める者もいない、とある。そして神への畏れがない、とある。
  • 神を探し求め、神を畏れる者は、神との関係を大切にして生きる。神との関係を正しく保とうとしない者は、言い換えると神を愛そうとしない者は、隣人を愛することができず、他者に対する罪を犯す。大切なことは神との関係である。
  • 神を探し求める者とある。積極的な表現である。どのような意味か。探すというのだから、神を身近に感じられない、あるいは神が遠くに感じられるのだろうか。祈りが聞かれず、神の存在があやふやになっているのか。聖書には、「わたしの魂はあなたを求める」(詩編42:2)。「神を待ち望め」(詩編42:6,12)。「神を愛する」「神に信頼する」「神を慕う」など神に対する信仰者の関わりを表現する言葉は色々ある。
  • 11節は「悟る者もなく、神を探し求める者もいない」とある。悟ることと神を探し求めることを同一の内容と考えることもできる。悟るとは、神を探し求めること。当時の社会は偶像礼拝に満ちていた。神を探すとはまことの神を探すこと、まことの神を信じて生きることと言えるのか。まことの神とは、聖書が証しする神である。そしてイエス・キリストを救い主として世に送った神である。
  • 旧約聖書には、エジプトの奴隷状態から、この神によって救われたイスラエルの民がどのような歩みをしたのかが書かれている。後のイスラエルの民は、自分たちの先祖をエジプトから救った神を忘れ、偶像礼拝を行っている。神を探し求めることなく、偶像礼拝に走っている。
  • 10~18節で、使徒パウロは、神を探し求めず神を畏れない人間がどのような歩みをするのかを書いている。
  • 僕は神を探し求める者であり続けたい。神を探し求めるとは言い換えると、神を探し求め続けることが大切であるということではないか。聖書を読まない者は、自分第一に生きる。聖書を読む者は、神との関係を大切にすることを学ぶが、自分第一に生きる傾向は私たちの心から完全にはなくなることはない。聖書を読み、神との交わりを持ち続けないと、自分第一に引っ張られる。御言葉によって神との関係を維持し続けることと教えられる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>神を畏れ、神を探し求めること。具体的には聖書を読み、思いめぐらし、神の御心を尋ね求め続けること。ディボーションを続けること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、聖書を読み続けなければ、ただ読むだけではなく、思いめぐらし、あなたの御心を尋ねることをし続けなければ、私たちの心は自分第一になることを教えられました。感謝します。
  • 私たちはつい、聖書を知っているつもり、神さまの教えを知っているつもりになり、神第一に生きているつもりになりますが、やはり聖書を読む生活の大切さを思います。今こうして聖書を読む生活を続けることができていることを感謝します。
  • 「神を探し求める者はいない」と題して、上に黙想したことをブログに書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 黙想したことをブログに書く