マルコ福音書 8章14~21節 しるしを求めない
2022年6月6日
(内容)
- イエスは弟子たちにファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけるように語った。その意味を悟ることのできない弟子たちにイエスは何度も、理解できないのかと責めた。
(黙想)
- 21節でイエスは「まだ悟らないのか」と言っているので、弟子たちはイエスが語ったことを理解していないことが分かる。マタイ16章5節以下にこれと同じ出来事が書かれているが、マタイでは、弟子たちは、パン種は「教え」のことであると理解している。マルコでは、弟子たちは最後まで理解できなかったことを語る。
- イエスはなぜ、注意を与えたのかと言えば、ファリサイ派の人たちが、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたからである。ファリサイ派の人たちは神を信じていた。そして彼らは昔からの言い伝えを守ることを重んじてきた(マルコ7:5)。これについてイエスは、ファリサイ派の人々は、神を敬っているが、その心は神から離れていると批判した。
- その心が神から離れているので、しるしを求めるような信仰に生きることになる。そのような信仰に倣うな、とイエスは弟子たちに教えた。
- イエスは既にしるしを示していた。多くの病人を癒やし、悪霊を追い出していた。ファリサイ派の人たちはそれを見聞きしていた。しかし彼らは、自分が信じるためにしるしを見せて欲しいと求めた。そこをイエスは問題とした。すでにしるしは与えられているのに、なぜ自分のためにしるしを求めるのか。自分が信じるためにしるしを求める、それは謙遜な態度ではない。
- 信仰とは神に信頼することであるが、神に信頼して大丈夫なのかという疑い、不信が伴うことがある。神は人間の願いを何でもかなえる方ではない。人間の願いは、神の御心と違うならかなえられない。信仰者は願いがかなえられない経験を持つと、信頼することにためらうことがある。何かしるしを見せてもらえれば、心から信頼すると考える人はいる。
- イエスが地上で活動したとき、人々はイエスが行ったしるしを見た。しかし、私たちはどうなのか。イエスの奇跡を目にはしてない。聖書を読むだけである。そして説教を聞くだけである。
- 生まれながらの人間の性質を聖書は「肉」と呼ぶ。肉は神への疑いを持つ。イエス・キリストを信じる者は聖霊を与えられ、生まれ変わり、神の子とされ、神を信頼する心を与えられる。しかし「肉」は残っているので、疑う心が湧いてくることはある。信仰に生きるとは、疑いとの戦い、いかに神に信頼していくかの戦いでもある。信仰者は疑いがあっても祈り、聖霊の助けを求めて祈り、神を信頼する選択をして生きる。
- しかし信頼して大丈夫だというしるしを見せて欲しいと思うこと、願うことはある。そこで大切なことは、私たちにはどんなしるしが与えられているかということである。神に信頼して大丈夫だというしるしは何か。しるしは与えられている。神は私たちを罪から救うために御子を世に送り、十字架の死に渡された。そして御子を復活させ、聖霊を弟子たちに注ぎ、教会が誕生した。イエス・キリストを信じる者は、聖霊を賜物として与えられ、神の子として新しく生まれ、信仰に生きている。これが私たちに与えられているしるしである。何を示すしるしか。私たちを救い生かすという神の御心のしるしである。神は必ず御心を行うというしるしである。
- もし私たちが神の御心に生きるなら、御心がなることを願って生きるなら、疑うことなく神を信じてよい。キリストの死と復活という大いなるしるしが与えられている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>ファリサイ派の教えに気をつけよと弟子たちを戒めるお方
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>しるしを求める信仰を持たぬこと
- <勧め>神が信頼できることを知ること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。しるしを求めるなと主イエスは教えられました。あなたへの信頼を持ち、あなたが御心を行われることを信じて祈り、行動することですね。私たちは祈りにおいて、自分の願いを祈ります。そして願い通りになるかどうか、執着します。つまり自分の思いがかなうかどうかが気になるのです。そこではあなたの御心がなるかどうかは忘れられています。
- 神さまが御心を行われることについては、私たちはしるしを求める必要はありません。すでにイエス・キリストの十字架というとてつもないしるしが与えられています。このことを肝に銘じます。そしてあなたへの信頼とは、あなたが御心を行われるとの信頼であり、私の願いを必ずかなえてくださるとの信頼ではないことと弁えます。あらためて、あなたは御心を行われると信じて、祈りの生活をしたいと思います。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 神さまは御心を行われると信じて祈る