マルコ福音書 16章14~18節 聞いて信じる

2022年4月22日

(内容)

  • 復活のイエスが、弟子たちの前に現れた。イエスの復活を信じなかった弟子たちの不信仰を咎めた後、弟子たちに全世界に行って福音を宣べ伝えることを命じた。

(黙想)

  • イエスは、弟子たちの不信仰と頑なな心を咎めた。弟子たちが復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからとある。
  • 思い起こすのは「信仰は聞くことによる」との言葉である(ローマ10:17)。人は聞いたことを信じる。しかし聞いたことを何でも鵜呑みにして信じることはよくない。聞いたことの何を信じ、何を信じないのか、その判断は大切である。キリストを信じる信仰に関していえば、自分が信じることができるか否か、で判断してはいけない。自分が信じることのできることを信じるのなら、聖書が伝えるキリスト信仰に生きることはできなくなるだろう。自己流の信仰になってしまう。

ローマ 10:17
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

  • キリストの言葉を聞いて信じるとある。しかし私たちはキリストの言葉を直接聞くということはない。聖書を神の言葉として読み、聖書に書かれていることを信じることになる。弟子たちは、聞いたことが自分では信じられないから信じなかった。これは間違った判断だった。少なくともイエスは弟子たちに三度、御自分が死んで復活することを語っていた。自分を判断基準にすることは不信仰であり、頑なな態度となる。
  • そのような不信仰で頑なな弟子ではあったが、イエスは彼らに全世界に行って福音を告げるように命じた。
  • 信じる者は救われ、信じない者は滅びの宣告を受けるとある。この信じない者は滅びの宣告を受けるという言葉はきつい。異教の日本では、家族といえども礼拝に誘っても来てくれるとは限らない。親しい人を信仰に導くことは簡単ではない。信じないで死んだら彼らは滅びの宣告を受けるのか。そう言い切ることは未信者の家族を持つ教会員に告げることは簡単なことではない。
  • しかし聖書が信じない者は滅びの宣告を受けると語ることを私たちは重んじなければならない。しかし、信じないと滅びるから信じなさい、と脅すような形で伝道はしたくない。
  • まず自分が信仰により救われていることを真剣に信じ、救いに生きることが大切である。そして信仰を伝えたい人に証しをし、礼拝に誘い、福音を信じるように導きたい。人が信じるのは聖霊の働きによるので、私たちの努力で相手を信じさせることはできない。私たちとしては、福音を伝える働きをすればいい。これが私たちの責任である。聞いたことを信じるかどうか、それはその人の責任である。少なくとも私たちの大切な人が信仰を持つように祈り続けることは大切だし、折に触れて礼拝に誘い、あるいは証しをすることは大切だ。
  • 信じる者に伴うしるしが書かれている。これらのしるしを積極的に求めて行動するのか否か。これはキリスト教の初期の時代だけに当てはまることなのか、それとも現代にも当てはまることなのか。難しい問題である。これらのしるしは自分の力で起こすことはできない。神の御心がなければしるしは起こらない。このしるしが起こる可能性を閉ざしてはいけないと思う。さりとて聖書に書いてあるからと言っていつもしるしを求めるのは行きすぎであると考える。神の御心がなければ、しるしは起きない。私たちが直面する事態において、神の御心はどうなのかを神に聞くことが大切となる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>信じない頑なな心を咎める方。
  • <御子>福音宣教を命じる方
☆神が私たちに求める生き方
  • <約束>信じる者に伴うしるしが約束されている
  • <勧め>福音を宣べ伝えること
  • <警告>頑なな心で信じることを拒むこと
  • <勧め>終末の裁きを覚えること
(神の導き)
☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の箇所は大切なことが書かれていて、考えさせられます。信じる者に伴うしるし、信じない者の滅びへの宣告。これらをどう受けとめるのか、正直迷います。私は、迷いつつ生きていきたいと思います。
  • 弟子たちがイエス様の復活を聞いたのに信じなかったとありました。これは問題です。しかし福音とは何か、人は聖書を読み考えます。そして人によって理解が異なります。信仰者は罪から解放されるのか否か、これも人によって解釈が異なると思いますし、信じて真剣に伝える人もいれば、あいまいのままにする人もいると思います。
  • 聖書の奥深さを思います。謙遜に聖書を読み学ぶ必要を教えられます。これからも読み続けます。感謝します。
☆与えられた導き
  • 特になし