マルコ福音書 15章1~20節 明らかになる人間の罪
2022年4月5日
(内容)
- ローマ総督ピラトのもとでのイエスの裁判が行われた。総督はイエスに罪のないことを認めていたが、人々を喜ばせるためにイエスの死刑を認めた。
(黙想)
- ピラトは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは妬みのためであると分かっていたとある。ねたみとプライドは同根である。プライドは自分に優る他者を見ると妬みとなる。宗教指導者も人であり、プライド、妬みという罪を持つ。この罪から清められる必要がある。宗教指導者は自分は妬みなどという感情を持つほど人間くさくないなどと思うかも知れない。しかし現実は違う。人はどんな人もプライドがあり、事と次第によってはねたみが現れる。清められない限り、人はねたみを抱く。
- ピラトはイエスに罪がないことを知っていた。彼はローマ総督としてイスラエルを治める役割があった。民の反抗を招いて混乱が生じたら、責任を問われる。保身のためにイエスを死刑にすることを認めた。保身、これもまた人間にこびりついた利己的な罪である。自分を守るために罪のない他者を犠牲にするのである。
- そして群衆。彼らは祭司長たちに扇動されたかも知れない。そして「十字架につけよ」と叫んだ。自分で判断をすることなく、扇動されて動く。無責任。この無責任がイエスを死に追いやったことになる。
- こうしてみると、メシアであるイエスを罪に追いやったのは、人間の罪であることがよく分かる。しかもイエスの弟子たちはイエスを見捨て、裏切るという罪を犯している。もし自分がイエスの立場におかれたらと考えるとぞっとする。イエスは神の救いの御業に参与し、自分の役割を受けとめている。では僕は何のために生きているのか。
- イエスはピラトの前の裁判では基本的に沈黙を通した。ピラトは不思議に思った。普通ならだれもが自分が有利になるように話すはずである。しかしイエスは黙っていた。イエスは十字架に向かって進んでいる。成り行きに身を任せればよいのである。自分を死に追いやろうとする人々の罪のためにも死ぬのである。裁判で弁明をする必要はない。
- ピラトはイエスを鞭打ちにし、十字架刑を執行するためにローマの兵士に引き渡した。ローマの兵士は、イエスをひどく嘲弄しあざけった。卑劣な行為である。ローマの兵士たちが何でこんなにひどい仕打ちをイエスにするのかと思う。ストレス発散である。卑劣である。それが人間の罪である。人間はそこまでする。
- ニュースでロシアの兵士が、ウクライナの市民を拷問し、殺したことが報道されていた。人間の卑劣さは計り知れない。しかしその人間の罪のためにイエスは十字架につかれた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々の罪の行為を受けられる方。抗議をしない方
☆神が私たちに求める生き方
- <罪>人間はだれもが罪を犯す存在である。祭司長たちの妬み。ピラトの保身。群衆の無責任。ローマ兵士の卑劣さ。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を読み、イエス様はどんな思いだったのかと思います。イエス様が受けたような仕打ちを受けたら、どんな人間も耐えられないし、あなたに抗議することでしょう。イエス様は私たち人間の救いのために十字架への道を辿られました。でもイエス様はどんな思いで自分の歩む道を受け入れられたのかと思います。
- 今日は、イエス様にどんな気持ちでこの時を過ごされたのか、祈りにおいて聞いてみたいと思います。私だったら逃げ出したいのに、なぜ逃げないのか。教えていただきたいです。
☆与えられた導き
- イエス様に祈る