マルコ福音書 14章51~52節 弱さを抱えて生きる人間
2022年3月31日
(内容)
- イエスについて来た一人の若者を人々が捕らえようとしたので、彼は裸のまま逃げた。
(黙想)
- 他の福音書には書かれていない出来事。イエスについて来たとあるので弟子であることを思わせる。しかしこれまでの記述では出てこない。通常、この若者はこの福音書を書いたマルコであると言われている。なお使徒言行録にマルコは登場しており、パウロの伝道旅行についていったことがある(15:37~38)。
- 季節は春であり、亜麻布を身につけただけでは寒いと思う。しかも、捕らえられそうになって逃げたときは裸であるとある。夜だから人から見られなくてすむ。マルコはなぜ、自分の小さなエピソードをここに書いたのか。これは実際に起きたエピソードなのか。もちろんメッセージを伝えるためのマルコが付け加えたと言える。
- ではメッセージとは何か。人間とは、素肌に亜麻布をまとった存在であること。素肌とはありのままの自分。人は亜麻布をまとって装っている。あるいは人は鎧を身につけている。装った姿を他人に見せ、また自分でも、装った姿が本当の自分であると思っている。人は素の自分を認めたくないのである。
- マルコはここで、亜麻布を捨てて逃げてしまった。つまり彼は素の自分をさらしたのである。自分の弱さをさらしたと言える。
- 弟子たちは、自分はイエスを裏切るような者ではないと、食事の席で強く主張した。ペトロは、「ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と語った。自分は卑劣な人間ではなく、人を裏切るような者ではないと宣言した。しかしあっけなくイエスを見捨てて逃げてしまった。自分はこのような人間であるという誇り、プライドは、あっけなく砕ける。一人の若者の姿は、我々の真の姿を描いている。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちにとって自分自身は誇りうる存在ではない。自分の弱さを知ることができたら幸いである。
- <教え>弱い私たちを神は受け入れ生かしてくださる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書に登場した若者は、裸で逃げました。これはありのままの人間が弱い存在であることを示していると考えます。私たちは自分の弱さを隠し、弱さを見せないようにします。プライドがありますから、弱さを隠します。しかし私は自分の弱さを認めました。自分を誇るのではなく、主を誇る、イエスを誇るようにしたとき、本当に楽になりました。感謝です。
- ありのままの自分を装う必要もなく、ありのままで生きることができます。しかし同時に神さまの助けと導きを祈り求めつつ、歩みます。私は弱いだけの人間ではありません。私は弱くとも、神さまが共におられるので私は強いのです。そのように信じて今日まで生きてきました。
- この若者も、イエス様のことを知らないと言った弟子たちもまだ年齢的には若く、自分に自信を持っていたと思われます。そして自分の弱さを思い知らされました。
- そして今私たちが生きている時代、個人的人間的な弱さの他に、経済的な弱さを抱えた人たち、生きにくさを覚えている人たちもいます。コロナ禍、また最近は物価が上昇して、個人的な生活において、事業を継続することにおいて困難を抱えた人たちもいます。
- 人の世は罪が支配しているので、この世には様々な問題があり、その中で人は生きていきます。頑張り、戦いながら生きている人たちに神さまの助けと祝福があるようにと願います。弱さを覚えている人の上に神さまの助けと祝福を今日は祈ることとします。
☆与えられた導き
- 弱さを覚えている人を覚えて祈る
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天の父なる神さま、
今日は弱さの中にある人たちを覚えて祈ります。
ウクライナの人たちも、ロシアの圧倒的な軍事力の前に
抵抗はしていますが、弱さの中にあります。
ウクライナの人たちを顧みてください。
ウクライナに平和が戻るように祈ります。
コロナ禍の中、経済的な弱さを覚えている人たちがいます。
雇用関係を切られ、職を失う人たち、
事業の継続が困難になり、事業をやめた人たち、
コロナ感染症の後遺症で苦しんでいる人たち、
コロナ禍、苦しい状態に追い込まれた人たちを顧みてください。
希望を持てるようにしてださい。
さまざまなかたちのいじめで苦しんでいる人たちがいます。
助けの手が伸べられますように導いてください。
病いの中で恐れや不安を覚えている人たちがいます。
顧み、慰め、励ましを与えてください。
癒やしを与えてください。
色々な弱さ、苦しさ、つらさの中にある人たちがいます。
天の父よ、そのような人たちを顧み、支えてください。
希望を与え、励ましてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。