第二コリント 11章7~11節 キリストに対する真実
2021年11月25日
(内容)
- パウロはコリントで伝道するとき、コリント教会から報酬をもらわなかった。パウロはこれについては問題がないことを訴えている。
(黙想)
- パウロは第一コリント9章で福音を宣べ伝える者は教会から生活費を受け取ることができると書いている。それは使徒の権利であると語る。しかし自分はその権利を用いなかったし、用いなかったことが自分の報酬であるとも述べている。
- 見方を変えると教会から報酬を受け取らないことは、自分が使徒であるとの自信がないというか、使徒としての権利を使うことに後ろめたさを感じているからと推測することもできる。使徒なら生活費を要求できるのに、なぜそれをしないのか。何か要求できない理由があるのではないか、と邪推されることもあるし、コリントではパウロは、そのように思われたのではないか。
- パウロを批判する偽使徒がコリント教会に来たとき、この報酬をめぐってパウロを批判したのかも知れない。
- パウロはコリントでは、教会から報酬をもらわないことを方針とした。なぜそうしたのかは分からない。報酬をもらうという権利を使うなら死んだ方がまし、と語っている(第一コリント9:15)。パウロは福音を宣べ伝えずにはおれないのであり、福音を伝えなければ自分は不幸であるとも述べて(9:16)、コリントでは無報酬でキリストを宣べ伝えた。ここにはパウロの特別な思いが現れている。
- キリストを宣べ伝える伝道者はキリストが宣べ伝えられていない地でキリストを宣べ伝えるとき、報酬はない。生活費は自前で何とかしなければならない。使徒言行録18章では、パウロはテント作りの仕事をしながらキリストを宣べ伝えたと書かれている。ある程度信仰者が生まれ、教会としての働きができるようになると教会は報酬を出し、伝道者に伝道に専念してもらうことになる。
- 真の伝道者か否かの試金石は、報酬がなくても伝道するか否か。そう考えることもできる。だからパウロは無報酬で福音を伝えること、それが自分の報酬だと語ることができた(9:18)。
- パウロがコリントで伝道したとき、マケドニア州の教会とくにフィリピ教会がパウロに経済的援助をした。そしてコリントでは無報酬で伝道するという方針を維持すると語る(11:9)。無報酬で伝道することが誇りであるとパウロは言う。そしてそれはコリント教会への愛でもあるという。そしてパウロは、無報酬で伝道することはキリストに対する真実からでたものと語る。
- このようなパウロの言葉をコリント教会の人たちはどう受けとめたのだろうか。
- 今日では、神学校を卒業して教会に遣わされる人は教会から報酬を得る。伝道に専念できるように教会は伝道者の生活を支える。教会のない地域に伝道するときは、教会の支援を受ける場合があるし、なければ生活費は自前で何とかしつつ伝道することになる。
- 伝道者にとって大切なのは、キリストを伝えたいとの真実な思いを持つかどうか、持ち続けるかどうか。いつのまにか伝道を「仕事」にして教会から報酬をもらうことに慣れてしまうことがある。ある人はこれを伝道者のサラリーマン化と呼んだ。使命ではなく、報酬を得るための仕事としてキリストを宣べ伝えるのである。長い伝道生活の中で、このような気持ちに誘われることはある。
- そうなるかならないかの分かれ目は何か。キリストを伝えたいと真摯に願い、福音を解明し、福音に生きることである。我々は罪を犯す者であるから、悔い改めることに心を開いている必要がある。そしてキリストを信じた人を愛し、仕えることが大切となる。伝道者の使命をいつも明確にしておくことが大切だ。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- <模範>キリストを伝えたいというパウロの真摯な気持ち。キリストを証しするという使命を持つこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は伝道者パウロの気持ちに少し触れることができて感謝です。パウロはキリストに対する真実を尽くしています。
- 今日の箇所を思いめぐらして、今のわたしにとってキリストに対する真実を尽くすとは、パウロが語るようにキリストの十字架を誇ること、これ以外には何も誇らないこと(ガラテヤ6:14)であると考えます。十字架の探求を課題として与えられています。あなたから、励みなさいと言われたような気がしました。感謝します。
- 引き続き、この課題に取り組むことができるように導いてください。今日も『The Cross』を読む。
☆与えられた導き
- 今日も『The Cross』を読む