第二コリント 5章18~21節 神と和解する
2021年9月1日
(内容)
- 神はキリストによって世を御自分と和解させた。パウロは神から和解の務めをゆだねられた。和解させていただきなさいと勧める。
(黙想)
- パウロは以前、クリスチャンを迫害していた。言い換えるとパウロは神の前に罪を犯していた。ある時、復活のキリストから呼びかけられ、キリストを宣べ伝える者とされた。パウロはキリストによって神と和解したことになる。神と和解したとは、神との交わりに生きる者となったことを意味する。
- 今一度、神を自分の神として、神のしもべとしてパウロは歩む。神に対する熱心は変わらないが、今までのパウロは神のみ心を知らなかった。信仰の歩みは独善的であった。しかしパウロは変えられた。
- パウロはキリストを信じ、今までとは全く違う信仰の世界へ導かれた。神はキリストによって世と和解した。神はユダヤ人だけの神ではなく、この世のすべての人と和解する用意のあることを示された。「私はあなたの神となる。あなたは私を神とせよ」と招いておられる。パウロはそのことを宣べ伝える者とされた。パウロは何よりも、十字架の上で死に復活されたキリストとひとつにされて生きた。
- 神は、「偽物の神、偶像の神ではなく、まことの神である私を神とせよ、私はあなたの神となる」と言われる。神はキリストを罪とし、キリストを信じる者に神の義を与えてくださった。キリスト者は義とされた。神の前に義なる者、神の目に正しい者とされた。
- 信仰とは、神と和解して生きることである。使徒は人々を神との和解に招く働きをする。教会は伝道をする。伝道とは、人々をキリスト者となるように導くだけでなく、神との和解へ導くこと。和解へ招く、それが伝道であるとパウロは語っている。
- 罪を赦されたと信じる信仰者は多いだろうが、神との和解を受けたと受けとめている人はどれほどいるのだろうか。そもそも「和解」という言葉を説教であまり聞かない。僕も説教をしているとき、「和解」という言葉はほとんど使わなかった。和解の任務をきちんと受け取っていなかったことを意味する。自分は神との和解に生きていたのかという問いに直面しなければならない。
- 神はキリストを信じる者を義とし和解に招いている。和解に生きるとはどういうことなのだろうか。和解、それは神との関係回復であり、神との交わりに生きることである。それだけなのか。いや、神との交わりに生きることが信仰であることを徹底しなければならない。
- 20節でパウロは「和解させていただきなさい」とコリント教会に向けて書く。受取人は、すでにキリスト者である。それなのに「和解させていただきなさい」と書くのはどういうことか。コリント教会の人たちは、罪の赦しは得ていたかも知れないが、神との和解には生きていなかったとパウロは考えた。
- パウロは、自分が使徒であることを伝えようとしてこの手紙を書いている。パウロの使徒性を疑う者たちがコリント教会に来て、コリント教会の人たちを惑わしている。パウロの弁明の仕方は、自分が福音をどう理解し、使徒としての務めをどう理解しているかを語る。通常の弁明とは異なる。人を罪から救う神の計画に仕える者として自分を語る。コリントの教会の人たちがパウロが手紙に書いていることを理解し、受け入れるなら、自分たちは神と和解したことを信じることになり、パウロが使徒であることを認めることにつながる。
- コリントの人たちは、自分たちが神と和解しているのか、真剣に考えるように導かれる。それはこの箇所を読む私たちも同じである。
- 神と和解するとは、私たちは人間であるので、徹底して神に信頼し、徹底して神に従順となり、徹底して神にゆだねることである。自分に信頼せず、自分の力、自分の知恵に頼らず、神に頼り、神にゆだねること。
- 人は不合理な経験をすると神を信じられなくなることがある。あるいは神を遠く感じるようになることがある。なぜ神は自分をこのような事態に直面させるのかと考えるのである。信仰者にしてもこのような気持ちを持つことがある。
- それは神と和解している状態ではない。聖霊はこのような時でもなお、神に信頼する信仰へとキリスト者を導く。徹底した信頼は、聖霊の賜物である。自分の力でこのような信頼は持てない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>キリストによって世を御自分と和解させた方
- <御父>神は和解の言葉をゆだねる方。
- <御父>神は私たちを義とし、私たちと和解する方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神と和解をすること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は和解ということについて考えました。私自身の中に、古い痛みがあり、あなたをどこか遠くに追いやる思いがあることを知っています。あなたの近くに行くことを拒む心があるように思います。そのことには気づいていましたし、克服できるのではないかと思って歩んできました。しかし、これは自分の努力では無理であることを今日教えられたように思います。
- あの古い痛みは、私を信仰に導く役割をしてくれました。そしてこの痛みについて、あなたには何の落ち度もありません。ただあの痛みを抱えながら生きる私を励ますものが何もなかったことを思います。聖書を知らず、あなたを知らず、ひとりで痛みに耐えました。その古傷からはもはや血は流れていませんし、傷も見えなくなったように思います。でも心の中に引っかかっているものがあるようです。
- 今回、このことについて、完全に解決し、あなたとの和解に生きることにしたいと思いました。天の父よ、あなたは私があなたのもとに帰るのを待っておられたことを信じます。私は成長するに及んで、導かれて教会に生き、信仰を得ました。そればかりでなく、聖書を説き明かす説教の務めへと召されました。あなたはずっと私に目を留めておられたことを信じます。あの古い傷、痛みについては、あなたの導きがあったと信じます。
- 先週のディボーションでもあなたとの真の和解に生きるために祈るように導かれましたが、今日も祈りたいと思います。そして心からあなたを親しく感じて、信仰に歩みたいです。導いてください。
☆与えられた導き
- 古い痛みを覚えて祈る。