第一コリント 10章14~22節

2020年12月4日

(内容)

  • パウロは、異教の神殿で飲み食いに参加することは悪霊の仲間になることだと指摘する。

(黙想)

  • この段落は8章から続く異教の神殿に捧げられた肉を食べる問題を扱っている。8章では、偶像なるものは存在しないから、偶像に捧げられた肉は食べても差し支えないと指示を与えた。ただし信仰者が偶像に捧げられた肉を食べるのを見て、本当にそれでいいのかと思う信仰者がいるなら、その人をつまずかせないために、偶像に捧げられた肉は食べないほうが良いと忠告した。
  • キリスト者には偶像に捧げられた肉を食べる自由がある。いかし誰かをつまずかせないためには自分の自由を制限することも大切だとパウロは9章で語る。そして10章でもう一度、偶像にささげられた肉の問題を扱う。ここには偶像礼拝との関連がある。8章では、異教の神殿での飲み食いに参加しているコリント教会の信者がいたことがわかる。彼らは偶像は存在しないのだから、異教の神殿で飲み食いしても問題はないと考え、自由に振る舞っていた。それに対してこの段落でパウロは、それは悪霊の仲間になることだという。
  • 偶像の神殿で食事の席についているコリント教会の信仰者は信仰を持つ以前から、その食事の席についていたのではないか。つまり以前からの習慣だったのである。しかし信仰を得て偶像礼拝になるかもしれないと考えて食事の席につくのをやめることはできた。しかし偶像なるものは存在しないのだからと考え、これは偶像礼拝にならないと考え、食事の席についていたと考えられる。偶像礼拝をするわけではないから、食事の席につく自由があると考えた。
  • パウロは、異教の神殿での食事と聖餐を並べる。祭壇の前での食事は、聖餐に限るべきであり、異教の神殿での食事は避けるべきだとする。異教での行為と信仰の行為が似ている場合、気をつけなければならない。キリスト者はお寺の仏像の前では決して手を合わせて祈ることはしてはいけない。私たちが祈る相手は神だけである。
  • パウロは異教の神殿で食事の席につくことは悪霊の仲間になることであると指摘する。パウロによれば、キリスト者には自由はあるが、その自由を用いて益にならないことをするのは良くないのである(10:23)。自由だからといって役に立たない無意味なことをしてよいわけではない。無意味なことに心を傾ける、それを悪霊の仲間になると言ったのではないか。キリスト者は神を仰ぎ、神に心を注ぐべきなのに、役に立たないことに心を向けることは良くない。むなしいものに心を使うことは悪霊の仲間になることだとパウロは語る。
  • 異教との関わりは異教社会の日本のキリスト者には大切な問題である。例えば家に仏壇があるなら、それとどう関わるのか。夫の実家に行ったとき、そこに仏壇があったとき、それとどう関わるのか。仏式の葬儀に参加することの是非、特に自分の家族の葬儀が仏式で行われた場合、それにどう関わるのか。
  • おそらく正解はないと思う。そこで問われるのは、自分がどのような思いで関わるのかである。「食べる人は主のために食べる。食べない人も主のために食べない」(ローマ14:6)。「主のために」行動すればよいのである。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>異教との関わりには注意しなければならない。人の目を気にして、安易に異教に関わってはいけない。こうすればよいという正解はない。「主のために」行動することが大切となる。どうすれば「主のために」なるのか、これは祈りつつ考えなければならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書箇所は興味深いものでした。私たちは異教社会の中に生きています。キリスト者としてどう振る舞うべきか、課題があります。私自身は、異教的なものに関わることはほとんどありません。仏壇、仏式の葬儀とも縁のない状態です。
  • 私は奈良に住み、古都奈良にある有名なお寺に行くことはあります。仏像の前で手を合わせたり、祈ることはしません。観光の気分で行くわけでもありません。私は幸いにイエス・キリストを信じることができましたが、奈良時代の日本人はキリストを信じることはできませんでした。真理を求める気持ちは、おのずと仏教に向かったことと思います。そして信仰の表現として、建物があり仏像があります。私はこの信仰の表現であるものを尊重したいと考えています。
  • 私自身は、お寺に行くことをどのように考えているのかと思いました。深くは考えていません。多分、お寺の広い境内の中に身を置くことが好きなのです。均整の取れた建造物を見るのが好きなのです。それらは信仰の表現として造られたものです。私たちの場合、信仰の表現といえば、証の生活となります。教会の建物も信仰の表現かもしれませんが、建物には、そこまでの意義はないと思います。むしろキリストの体なる霊的な教会こそ、信仰の証となるべきだと思います。
  • 私には信仰を持つことへの共感があるのかもしれません。ただお寺の場合は、信仰を目に見える形で表現しています。ある意味で偶像かもしれません。当時の人たちはキリストを知ることができませんでした。私はキリストを知り信じることができました。感謝です。信仰は見える形で表すべきものであることを学ぶことができます。ただ私たちの場合は、生活の中での証となります。けっして建造物でもなく、キリストの像を造ることでもありません。
  • たしかにキリスト者はお寺に行く必要はありません。ただ私の場合は、お寺の広い静かな境内で黙想することができますし、キリストを信じることの恵みを新たにし、信仰は生活の中で表現すべきことを教えられるという点で、益があると思いました。お寺に行くことの意味を自分なりに明らかにできたことを感謝します。
☆与えられた導き
  • お寺に行くことの自分の意義を確認できて感謝する。