ヨハネ福音書20章24~29節
2020年4月21日
(内容)
- 8日後イエスはまた弟子たちに現れた。他の弟子の報告を聞いてもトマスはイエスの復活を信じなかった。イエスはトマスに御自分の手をわき腹を見せてトマスに信じるように導いた。そして「見ないのに信じる人は幸いである」と語られた。
(黙想)
- 他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言ったが、トマスはイエスの復活を信じようとしなかった。イエスの手の釘跡、イエスのわき腹に手を入れてみなければ信じないと言った。信仰は聞くことから始まるが、トマスは信じようとしなかった。自分で確かめることができなければ信じないと言った。気持ちは分かる。
- 僕には一つ課題がある。聖書は告げる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。イエスを信じる者は永遠の命を得るという神の約束である。この世の生涯を終えれば、神の国に迎えられるという約束と考えてよい。この約束を僕は聖書から聞く。トマスのように、この約束が本当であることを確かめることができなければ信じないという強い思いはないが、信じて大丈夫だという確かさを求める思いはある。トマスは僕なのだ。僕はトマスなのだ。イエスは「見ないで信じる者は幸いだ」と語られる。なぜ幸いなのか。
- 施設に入っている年配の老婦人が訪問した僕に言った。「イエス様が枕元に現れました。私はいつ死んでもいいです」。彼女には一種の確かさが与えられたのである。僕もこのような確かさを祈り求めればよいのか。でも見ないで信じる者は幸い、とイエスは言われた。なぜ幸いなのか。
- 聖書を読みながら信仰生活を送ってきた。その中で得られた一つのことは、確かさを人は自分の手に握ることはできないということ。確かさを求めても得られない。神が存在するという確かさ、自分が牧師に召されているという確かさ。確かさを求めて、神にしるしを求めたこともある。しかし得た結論は「確かさはみ言葉にある」。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)。この聖書を読み、福音を伝えたいと願うなら、神に召されていると信じてよい、と結論したことを思い出す。
- 御言葉が語ることが真理であり、確かなのである。だからみ言葉に立ち、信じる者は迷うことなく信じて歩める。だから見ないで信じる者は幸いなのである。
- イエスを信じる者は神の国に迎えられるとの聖書の約束。御言葉が語ることが真理、み言葉にこそ確かさがあるというのが、僕の信仰。なのに、御国に迎えられるという確かさを求めたくなるのはなぜか。それは肉の思いだと思う。かくして僕の心には葛藤がある。確かさはみ言葉にあると
- 理性は語る。心は確かさを求める。頭と心の葛藤。神が御言葉を通して約束しているのに確かさがほしいというのは、神を信頼していないということ。神を信用していないということ。つまり不信仰。肉の思いがあるということ。
ガラテヤ5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
- 見ないで信じるのはなぜ幸いなのか。御言葉が語ることをそのまま信じることができるから。そしてそれは聖霊の導きである。聖霊の導きを受けることができる、それが幸いなのであると思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは、トマスの願いを聞かれる方。いきなり「見ないで信じる者が幸い」と教えない。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>見ないで信じることが幸いであると信じること。そして見ないで信じること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私の内に肉の思いがあることがはっきりすることができて感謝します。肉の思いに勝利できるのは、聖霊の導きだけです。どうぞ聖霊の導きを受けることができますように。あなたが真実な神であり、み言葉は確かであることをあらためて信じることができるように導いてください。わたしの肉の思いを打ち砕いてください。「見ないで信じる者は幸いである」と言われたこの幸いを受け取ることができるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- しばらく聖霊の導きを求めて祈り、見ないで信じる幸いを得ることを目指す。