ヨハネ福音書 18章38節~19章16節

2020年3月31日

(内容)

  • ローマ総督ピラトは、イエスに罪を見出せなかったが釈放することができず、ユダヤ人たちの声に従い、イエスを十字架につけることを許し、彼らに引き渡した。ピラトのイエスに対する言葉「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」が空しく響く。

(黙想)

  • ピラトはイエスに罪を見出せない(18:38、19:6)。イエスを釈放しようとするがユダヤ人たちの声に従い、結局イエスを十字架につけることを許している。ピラトはイエスに「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と語ったが、実際にはその権限を捨てて、イエスをユダヤ人に引き渡し、イエスを十字架につけることを許可している。
  • ピラトがイエスを釈放しようとしたとき、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。ピラトは、自分が皇帝に背いていると嫌疑をかけられるのを恐れて、結局イエスを釈放しなかった。
  • 人間というのは、恐れに負けるものであることを知る。「お前を釈放する権限も十字架につける権限も私にある」と威張っていたピラトであるが、恐れに捕らわれ、あっけなくその権限を放棄した。しかし「恐れることはない」と私たちに語りかけるお方がいる。私たちはもはや恐れに支配されてはいない。恐れに支配される必要はない。
  • 祭司長たちは言った。「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」。神を信じると自称し、神殿での祭儀を執り行う指導者である祭司長たちの言葉なのか。イスラエルの民に王がいるとするなら、本来それは神自身である。サムエルの時代、イスラエルの民は王を欲した。神は王を立てることを許されたが、その時神は言われた。

 「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」。

  • サムエルは王を立てることを悪と考えた。そして神に祈った。祈りに対する神の答えが、上に引用した神の言葉。異邦人の支配者を自分たちの王と語るとは、祭司長たちには、もはや信仰はない。彼らは宗教システムをのっとり、自分の地位を築いているに過ぎない。神に対する真実な信仰はひとかけらもない。
  • イエスと向き合った結果、ピラトは恐れに支配された者でしかなく、自分の権力を誇っても、その誇りは空しいものとされてしまった。祭司長たちは、イエスをピラトのもとに連れて行ったとき、官邸の入り口でイエスを引き渡し、官邸に入ろうとしなかった。身が汚れると考えたからである。その異邦人を王と仰ぐと告白するとは。信仰を捨ててただ欲に捕らわれている人間を見る。
  • イエスと向き合うとき、私たちは自分が何者であるのかを教えられるのではないか。私たちは恐れに捕らわれる情けない人間であり、自分が誇りに思っているものは空しいものであり、異邦人を自分たちの王と告白する情けない信仰しか持てない。いや信仰は方便でしかなく、自分の欲に捕らわれているに過ぎない。「わたしだ、恐れることはない」と語りかけてくださる方を信じ、この方に信頼することにより、私たちは人間らしさを回復することができる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • (御子)私たちは御子イエスと向き合うと自分が何者かを知らされる。御子は、私たちが何者であるかを映し出す方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)私たちは、決して何者でもないし、自分の中に誇りうるものなど持たない者である。もし何かも誇るなら、その誇りは空しいものと知るべきである。また自分の信仰も誇るに足りない。それどころか、神の憐れみなしには信仰者として立っていけない者である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書でピラトと祭司長たちのみじめな姿を見ました。自分が何者であるかを誇る誇りのむなしさを見ました。結局人は、あなたを知らなければむなしいものを誇りしかないのですね。さらに自分は信仰者であるとして、そのことを誇ることもできないことを思います。しかし、「恐れることはない」と語って下さる方が私たちにはいます。この方に信頼し、この方に学び、この方に従って生きるという道が用意されていることを感謝します。
  • 天の父なる神、私にイエス様を主と仰ぎ、イエス様にお従いする信仰をお与え下さい。
☆与えられた導き
  • 主イエスに従う信仰を求めて祈る。