ヨハネ福音書 15章1~6節
2020年2月19日
(内容)
- イエスはぶどうの木であり、私たちはその枝である。枝が木につながっていれば豊かに実を結ぶように私たちも主イエスにつながっていれば豊かに実を結ぶ。
(黙想)
- この箇所において、私たちがイエスに「つながる」という表現がある。イエスも私たちに「つながって」くださる。14章で「あなたがたがわたしの内におり、私もあなたがたの内にいる」(20節)という表現があった。これと同じ表現が、15章5節にあり、5節では、「内にいる」という言葉が「つながる」になっている。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば」。
- 私たちとイエスの関係が15章ではわかりやすくつながると表現されている。そして「私」がイエスにつながり、イエスが「私」につながってくださる。ここにはイエスに「つながる」という私たちの意志と努力が示される。
- 相互につながることを「交わり」と言ったりする。
- 「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリント一1:9)。
- 実を結ばない枝は、父が取り除かれる(2節)。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」(6節)。イエスにつながっていなければ実を結ぶことができない(4節)。
- イエスにつながっていれば実を結ぶが、つながっていなければ実を結ばず、投げ捨てられて枯れる。イエスにつながる意志と努力の必要性を教えられる。そしてつながっていれば実を結ぶという。自分はつながっているのか、実を結んでいるのか、それとも枯れた枝なのか、自分を吟味することが大切だ。
- 3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とある。清くなる、それはイエスにつながっていることを意味する。1節で父は豊かに実を結ぶように枝の手入れをされるとがるが、イエスの言葉を私たちに与えるのは父なる神。イエスの言葉によって清くなり続けることによって、私たちはイエスにつながり、実を結ぶことになる。
- 清くなるとは、イエスの言葉によって生きること。漠然とした心の清さとか、なにか純粋な心、汚れのない心とかいうものではない。イエスの言葉によって生きることこそ、世の汚れに染まらない清い心である。そして清い心が実を結ぶ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>まことのぶどうの木である方。枝とつながろうとするぶどうの木である。
- <御父>実を結ばない枝を取り除く方。
- <御父>実を結ぶ枝は、さらに手入れして豊かに実を結ぶように配慮する方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>イエスはぶどうの木であり、私たちはその枝である。枝、それが信仰者のアイデンティティー。
- <勧め>ぶどうの木につながり続けることが大切。つながる努力をしなければ実を結ばずやがて枯れる。
- <約束>枝はつながり続ければ実を結ぶ。
- <約束>イエスの言葉は、私たちを清くし、実を結ぶようにする。私たちは実を結ぶ者となる。
(与えられた導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションすることができ感謝します。私はイエスにつながる努力をしてきました。聖書に親しみ、み言葉によって生きる歩みの努めてきました。私はイエスの言葉によって清くされ、実を結ぶものとされていることを感謝します。
- 今日の聖書を読み、自分はどのような実を結んできたのかと思わされました。あなたが実を結ばせてくださったのなら、あなたに感謝し、あなたをたたえなければなりません。
- 自分が結んだ実というのは、わかりにくいものです。しかしこうして日々聖書に親しみデボーションをし、み言葉によって生きようとしていることは、ぶどうの木につながるよい枝であることを意味していると思います。自分がよい枝とされていることを感謝し、私を導かれるあなたをたたえます。
先日、息子と電話で話したとき、私がどんな実を結んでいるか、話してくれたことを思い出します。それを聞いたときは、うれしく思いました。今日は妻に聞いてみようと思います。 - 私がどんな実を結んでいるのか、一番それを知っているのはあなたです。私がどんな実を結んでいるのか、神さま、教えてください。教えてくださいと祈ります。
☆与えられた導き
- 私が結んだ実について、妻に聞いてみる。
- 神さまに教えてくださいと祈る。
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妻曰く
・あなた自身が実よ。福音に生きる人とされたことは実。
・そして私も実よ。
・牧会した最後の教会でのいくつかの事柄も実だと思うわ。
・「中部教区通信」が届いた。その中に最後に牧会した教会のことが書かれていた。そこにはデボーションを通して祈祷会がさかんであることが書かれており、「実りがある教会です」と書かれていた。