ヨハネ福音書12章47~50節
2020年1月7日
(内容)
- イエスは裁きについて語る。イエスは世を救うために来られたのであり、世を裁くためではない。しかしイエスの語った言葉が終わりの日に、イエスを信じない者を裁く。
(黙想)
- ヨハネ福音書には「裁き」について語るイエスの文章が色々ある。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」(9:39)との言葉もある。これは47節の言葉と真逆である。だからイエスの真意を読み解くことが大切となる。それはむずかしいことではない。
- イエスがこの世に来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためである。これが基本。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:17)。
- イエスが「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と語るとき、それは何を意味しているかというと、イエスが世に現れることにより、人はイエスを信じる者と信じない者に分かれることを意味している。もちろん人間は自由であり、イエスを信じるか否かは、その人自身の選択となる。イエスの存在は、木材に打たれたくさびが木を二つに裂くように、人間を信じる者と信じない者に分ける。イエスが「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と語るとき、それはイエスが来たために、人は信じる者と信じない者に分けられることを意味している。
- そしてこの世においてイエスを信じない者は既に裁かれている。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3:17)。
- この世においてイエスを信じる者は光の中を歩むことができるが、イエスを信じない者は暗闇の中にとどまる。イエスを信じるか否か、それは人の選択、決断であるが、その結果を人は刈り取ることになる。信じない者は闇の中にとどまり、闇の中に生きるという結果を自らに招く。
- イエスに対してどのような態度を取るかによって、人は裁きを受けることになる。この12章48節では、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」とある。イエスを信じない者は二つの裁きがある。この世にあっては、暗闇の中に留まること、そして終わりの日に、イエスを信じなかったことに対して裁かれる。
- 終わりの日の裁きを受けるとどうなるのか。それは「滅び」である。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。イエスを信じない者は永遠の命を得ることができない、言い換えると滅びるということである。滅びるとはどういうことかをイエスは語っていない。
- 滅びがよくないものであることは間違いない。滅びが何かわからないが、滅びない生きかたを選ぶことは賢い選択である。基本的に信じることは聖霊の導きである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>47節。御子イエスは世を裁くためではなく、世を救うために来られた方である。
- <御子>御子イエスは、父なる神が語るべきことをお命じなったことを語られる方である。
- <御父>50節。父なる神は、私たちが永遠の命を得ることを願う方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスを信じて永遠の命を得ること。
- <勧め>「滅び」を真剣に受けとめること。でもイエスは「滅び」については語っていない。賢い人は、「滅び」を受けとめ、イエスを信じて生きることがどういうことかを学ぶにちがいない。「滅び」を真剣に受けとめない人は、終わりの日に後悔することになる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様を信じるように導いてくださり感謝します。永遠の命、新しいいのちをいただき、御言葉を真理と受けとめ、御言葉によって歩むことができることを感謝し、私を救ってくださったあなたをたたえます。
- 今日の聖書では、イエス様の言葉を聞いたのにイエス様を信じない人は、終わりの日にイエス様の言葉がその人を裁くとあります。聞いたのに信じない、だから裁かれるとあります。
- この日本で教会に来ることがなく、イエス様の言葉を聞いたこともない人はどうなるのでしょうか。でも今の時代、教会は各地にあり、教会に行くという選択、行かないという選択を人々はしています。イエス様を信じるか信じないか、人々は選択していると言えます。とすれば信じない人は滅びることになりますね。
- 滅びるということがどういうことか、正確なことは分かりませんが、少なくとも避けるべきものであることは確かです。でもそのことを人々は信じないし、教会に来ないし、イエス様を信じようとしません。信仰者の家族にも信じない人がいます。教会に誘っても来てくれない家族もいます。
- 人々が滅び行くのを黙ってみているわけにもいません。どうしたらよいのかと思案します。私としてはあなたの導きに期待するしかありません。くじけることなく、救われるように執り成しの祈りを続けることとします。
☆与えられた導き
- 心に覚えている人たちの救いを祈り続ける。