ヨハネ福音書12章44~46節
2020年1月4日
(内容)
- イエスは、イエスを信じる者がだれも暗闇の中にとどまることのないように、光として世に来た。
(黙想)
- 光と闇は対立している。光は照らし周囲を見えるようにする。闇は何も見えないようにする。暗闇の中にいると自分がどこにいるか分からず、どちらに進んでいいかもわからない。つまり迷いの中にいることになる。しかし光の中にいれば、自分がどこにいるかわかり、どちらに行けばいいのかも分かる。
- クリスマスに読まれる聖書で「闇の中にいる民は大きな光を見た」とある。イエスを信じる者は光を見、その光の中を生きることになる。
- 光はわたしたちを照らし、闇の中では見えなかったものを見えるようにする。暗闇の中では見えなかったものは道であり、光の中で照らされれば道が見える。イエスは光であり、世の光であるが、それだけではなく、道でもある。イエスという光に照らされ、私たちはイエスという道を見、その道を歩むことになる。
- 「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)。
- 「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます」(詩編119:130)。
- これらの詩篇の言葉は、光のおかげで、御言葉こそ私たちを導くものであることが分かる。御言葉なしに生きる者は結局、自分の思いによって生きる者であり、闇の中でさまよう者である。
- イエスは「私は世の光である」と言われた(ヨハネ8:14)。そして「あなたがたは世の光である」と言われた(マタイ5:14)。そしてその光を輝かせなさいと教えられた。光の中を歩む者はイエスのように光となる。
- 僕自身は、信仰に導かれ、ディボーションへ導かれ、御言葉を黙想し、神の導きを与えられて歩めることをあらためて感謝する。そして光の中を歩む私たちは、光として周囲を照らす世の光となることを覚えたい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>46節。御子イエスは光である。
- <御子>45節。神に遣わされて世に来た「世の光」である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>光であるイエスを信じて生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、死の恐れと空しさという暗闇の中にいた私を光に照らされた世界へ、信仰の世界へ導いてくださったことを感謝します。人間の考えること、人間の経験、人間の知恵というものは究極的な拠り所とはならないことを思います。あなたの御言葉こそ、私たちの光であり、私たちの歩む道を示す光です。そしてイエス様ご自身は道です。
- 信仰によって、み言葉に従って歩むことができるように導かれたことも感謝します。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」との詩篇の言葉が真実であることを思います。私を救い、み言葉を持って導いてくださるあなたを賛美します。
- そして思うことは息子のことです。進学のために親元を離れ、通った教会で息子は傷つきました。行く教会を変えましたが、そこでもまた傷つき、教会に対する不信感が信仰への不信感となりました。父子の交わりはよい関係で維持されていますが、信仰を勧めることは今は控えています。
- 新しい年になり、昨年度後半のブログの記事を本にまとめようとしています。ブログには私の信仰の証を書いています。それを息子に送ってはどうかとの思いが与えられました。息子が信仰者との出会いにより信仰の回復がなされるように祈っていますが、その出会いの最初の一人は、父である私ではないかと思いました。私が最初の一人になる、それは信仰者としての親の責任だと思いました。神よ、導いてください。
☆与えられた導き
- ブログを印刷したものを息子に送る