ヨハネ福音書11章38~44節
2019年12月4日
(内容)
- イエスは墓に行き「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫んだ。するとラザロが布で巻かれたまま出てきた。この奇跡はイエスが神から遣わされたことのしるしであり、人々がイエスを信じるための奇跡であった。
(黙想)
- イエスが「墓石を取りのけなさい」と言うとマルタは「もうにおいます」と答えた。ラザロは死んだという事実に屈しているマルタの姿がある。誰も死がもたらすものを変えることはできない。
- しかしイエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。これはイエスが弟子たちに語った言葉であり(11:4)、マルタとの会話で語った言葉ではない。聖書には書かれていないが、イエスがマルタに語った可能性はある。
- イエスは父に祈る。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださった感謝します」。イエスの願いは父なる神に届く。そしてイエスの願うことは出来事となる。我々の願うこともすぐに出来事になればいいなと思う。
- ラザロが生き返る奇跡には、意味がある。イエスが父なる神から遣わされたことを明らかにする意味がある。ヨハネ福音書が伝えようとしていることは、イエスが神から遣わされたメシア、救い主であること。
- 9章でイエスが盲人の目を見えるようにしたことも、イエスが父なる神から遣わされたことを示す奇跡、しるしだった。ファリサイ派の人々は強烈に信じることを拒否していた。イエスとファリサイ派の対立は、この福音書を読む者たちに、イエスが神から遣わされた方であることを信じるように促している。
- イエスが神から遣わされたことを信じる、それだけではイエスを信じたことにはならない。この福音書ではイエスがどのような方であるのか、私たちとどのような関係にあるのかが語られている。これを受け入れて生きなければ、イエスを信じたことにはならない。
- 11章では、イエスは「わたしは復活であり、命である」と語り、さらに「わたしを信じる者は死んでも生きる」と語り、「このことを信じるか」とも言われた。イエスを信じるとは、死を越える希望を抱くことである。私たちの前にイエスが現れ、「このことを信じるか」と言われたらどう答えるのか。
- 10章ではイエスは羊飼いであり、わたしは羊飼いに養われる羊で、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに従う羊であることが語られた。イエスとの関係をこのように理解し、このように生きることがイエスを信じると言うこと。
- 私たちは常に、イエスを信じる者として生きているのか、真実にイエスを信じているのか問われている。
- ラザロの生き返りは、死の絶対性が打ち破られたことを示している。死の支配が絶対的なものではないことが明らかにされた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)41節。父なる神はイエスの願いを聞かれる方である。
- (御子)42節。イエスは神から遣わされた方である。
- (御子)42節。イエスは、人々を信仰に導くべく行動している。
- (御父)44節。死者を生き返らせることができるお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- (約束)40節。信じれば神の栄光を見ることができる。
- (教え)44節。イエスは死に勝利された。死の支配は打ち砕かれた。
(神の導き)
☆祈り
- 神さま、イエスは信じれば神の栄光が見れると語られました。神の栄光というと、何か輝かしいものを想像しますが、これは目で見るものではなく、心で、あるいは信仰で見るものですね。私たちは神さまの御業の痕跡を見るのみです。直接神さまが働いているのを見るわけではなく、神さまが働かれた経過、結果を信仰の目で見ることができるだけです。でもそれを見ることができるのは幸いです。神さまの御業を信仰の目で見る時、私たちはあなたの栄光を見るのですね。
- 証しとは、あなたのみ業を語ること、神の素晴らしさを伝えることですね。証しの文章を書く時、神さまの御業をどのように自分は見ているのか、そのことに気をつけて文章を書いてみたいと思います。今日もブログに証しの文章を書きますが、心がけたいと思います。
☆与えられた導き
- 神のみ業を注意してみて、証しの文章を書く。