ヨハネ福音書 1章35~42節
2019年5月24日
(内容)
- ヨハネが歩いておられるイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言った。すると二人の弟子はイエスに従った。そのうちに一人はアンデレで、彼は兄弟のシモンにメシアに会ったと語り、シモンをイエスのもとに連れって行った。
(黙想)
- イエスは自分について来る二人の者に「何を求めているのか」と問われた。すると二人は「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた。何を求めているのか、とのイエスの問いに「どこに泊まっているのですか」と答えた。なぜこのような答えをしたのか。「何を求めているのか」と言われても、イエスに何を求めていいのか、分からなかったのではないか。イエスの泊まっているところへ行き、自分たちもそこに泊まってじっくり話をしたいということなのか。イエス様自身への関心を示したのか。
- イエスは、私たちに「何を求めているのか」と問うお方である。
- 二人はイエスのもとに泊まった。それ以上の記述はないが、アンデレが兄弟のシモンに「メシアに会った」と言うからには、イエスのもとに泊まり、イエスとの交わりを持ち、イエスがメシアであるとの確信を得たということになる。
- イエスがメシアと確信を得たアンデレは兄弟のシモンをイエスのところに連れて行った。家族を教会に連れて行きたいとの願いを持つ人は多いだろう。なかなか一緒に礼拝に来てくれないという現実がある。今日の箇所は家族伝道に対するヒントがある。「私はメシアに会った」と語って教会に誘うことである。正直な証しが必要となる。何か集会があるからと誘うことはあると思う。教会のイベントは誘う理由になる。自分の証しをして誘うことの大切さを今日の聖書は教えている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)38節。御子はご自分に従ってくる者に「何を求めているのか」と尋ねるお方である。御子は、求めにこたえてくださるお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)41節。誰かを神さまのもとに連れて行きたいと考えるとき、つまり伝道したいと思うとき、「私たちはメシアに出会った」と語り、誘うことの大切さを教えられる。
- 「メシアに出会った」と語るとき、私たちは証しをする必要がある。それは、イエスが、出会うにふさわしい方、信じるに値する方であることを私たち自身が証しをするのである。伝道するとは、相手に対して責任を持つ行為であり、その責任は、証しをすることによって果たされる。他宗教でも「私は信じて、こんなによかった」との証しがなされている。問題は、その証しの質である。人の欲につけ込むような証しは気をつけなければならない。でも証しをして誘うのは理に適っている。私たちはこの点で弱いのではないか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、イエス様は従う者に「何を求めるのか」と尋ねてくださいます。そこで私は願います。イエス様は聖霊によって洗礼を授けてくださるお方です。「聖霊による洗礼とは何か」教えてください。先日のディボーションからハイデルベルク信仰問答で、聖霊による洗礼について教えられているかどうか調べるという適用を与えられました。教会で通常なされる洗礼、水の洗礼の時に聖霊は働かれること、その働きは、私たちを生まれ変わらせること、罪からの清めを与えることとありました。
- しかし新生、罪からの清めが、聖霊による洗礼の効果なのか、疑問に思います。水の洗礼において聖霊は働いてくださいます。でもその働きが聖霊による洗礼と言えるのかどうか。使徒言行録1章8節で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とイエス様は語られました。
- この「聖霊が降る」が聖霊による洗礼であって、それは私たちをキリストの証人とさせます。聖霊による洗礼とは、キリストを証しし、キリストを宣べ伝える働きと関係しているように思います。
- イエス様、聖霊による洗礼とは何か、私に教えてください。
- また家族伝道についても教えられました。私が自分の信仰者としての思いをブログに書き、それを見て妹は教会に行くようになりました。やはり伝道には証しが必要です。このことをブログに書きたいと思います。
☆与えられた導き
- イエス様に祈り求める。
- 家族伝道についてブログに書く