ルカ福音書 20章27~40節
2019年2月6日
(内容)
- 復活を否定するサドカイ派の人々とイエス様の対話。イエス様は復活を肯定する。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と。神さまはご自身をモーセに証しして「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われた。神さまがご自身を「アブラハムの神」と言われるからには、アブラハムは復活している」とのイエス様の主張。
(黙想)
- イエス様は、サドカイ派の人たちが出した質問に対して、復活した人たちは、めとることも嫁ぐこともないと答えて、矛盾はないことを示されている。イエス様は復活を前提として話しておられる。
- 私たち信仰者はイエス様を信じている。イエス様の十字架の死と復活を信じている。イエス様の復活を信じない人はキリスト者ではない。「信じる」という行為には微妙な面がある。信じる行為には、疑いが伴う。何の疑いもなく信じ切ることもできるだろうが、信じていても、本当はどうか、と不安になることがある。
- イエス様の復活を僕は疑わない。では自分が死後復活することはどうか。信じている。でも何の疑いもなく信じているかと言われたら、「信じている」とは言えない。「じゃあ自分の復活を信じていないのか」と言われたら、「信じている」と答える。聖書的に言えば、人間には肉の性質があり、信仰を妨げる面がある。
- パウロは、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和」と語り、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」と語る。私たちは肉の弱さのために「信じ切れない面がある」。しかし信じ切れないところに立ち止まるなら、それは肉に従って歩むことにある。
- 僕は自分の心に肉の思いが湧いてくるとき、それが僕に働きかけることを許していたのではないか。要は、不信仰へと誘う声、思いは、捨てなければいけない。拒まなければならない。これも信仰の戦いだ。素直に信じ切ることができる人は幸い。しかし信じるための戦いをする人も幸いである。
- まず神に告白しよう。「私は自分の復活を信じます。そして自分の復活は本当だろうかとの不安な思いは捨てます。不安は肉の思いであり、私は霊の思い、つまりみ言葉に従います」。
(神の導き)
☆与えられた導き
- 神に告白する。