フィリピの信徒への手紙3章1~9節
2019年1月31日
(内容)
- パウロは、「あの犬どもに注意しなさいと語り、肉の割礼を主張する人たちへの警戒を呼びかけます。旧約聖書において、肉の割礼は、神の民のしるしでした。しかしキリストを信じる神の民のしるしは、切り傷に過ぎない割礼ではなく、神の霊によって礼拝することだと告げます
- 続けてパウロは、キリスト・イエスを知る素晴らしさについて証しをします。キリストとの出会いによって変えられ、神を霊によって礼拝する者こそ、真の神の民であり、真の割礼を受けた者です。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (模範)8節。パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを語ります。私はキリスト・イエスを知る素晴らしさをどれほど知っているのだろうか。パウロは、キリスト・イエスを知ること以外のものを一切の損失と見ています。私はどうなのか、と考えます。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさについて語っています。ガラテヤ書では、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りました。ローマの信徒への手紙では、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」とも語りました。
- パウロは、信仰者がキリストとひとつにされていることを証しをしています。そのことが素晴らしいと告げています。このパウロの言葉を受けて、では私はあなたが送ってくださった救い主、イエス・キリストを知ることのすばらしさをどう証しできるのかと思わされます。
- 牧師として、説教者としてイエス・キリストを宣べ伝えてきました。ではそもそも私は、信仰に生きる私はイエス・キリストを知ることのすばらしさをどう考えているのか、どう感じているのか、考えてみるように導かれた思いがします。私は救いにあずかりました。私はどのようにイエス・キリストを主と崇めているのか、あなたによって救われたことの感謝をもって、イエス・キリストを宣べ伝えてきた責任として、顧みたいと思います。
☆与えられた導き
- イエスのすばらしさをどう受けとめているか、文章にする。
~~~~~~~~~~~~
「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」について
昔、転入会を希望する信仰者が「イエスに出会ったのは・・・」と語ったことがあります。人と人が出会うようにイエスと出会ったという表現に違和感を覚えました。私にはそのような表現を使うことができないからです。うらやましい気持ちもしました。その方は、今も私が最初に仕えた教会で今も教会を支えてくださっています。イエス様に出会った喜びがいつも心にあるのだと思います。
1.救いの恵み
- 私は、イエス様が私のために何をしてくださったのか、それを知り、イエス様を救い主として受け入れました。イエス様が私の罪の贖いのために自分を十字架の上に犠牲として献げたこと、そのことのゆえに、私は罪が赦されることを信じて洗礼を受けました。私は信仰によって義とされ、神さまとの間に平和を得ることができて、信仰者として平安と喜びをもって生きることができるようになりました。
- 信仰を持つ前、イエス様が自己犠牲の歩みをしたことを知ったとき、生きることの空しさを覚えていた私は驚きました。同時にそこに実は空しさを克服する歩みがあるのではと予感をしました。自己犠牲の歩みはマイナスとは限らない。だから、私は牧師になることを受け入れることができたのかもしれません。自分の人生を神さまに献げる歩みをしました。ロマ書の12章の冒頭の言葉は、若き日の私にとって重要な聖句です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
- 牧師になるときは、色々なものを捨てました。牧師となっていただいた最初の謝儀(給与とは言わない)はサラリーマンとして働いていたときの給与の半分以下、いや1/3位でした。生活のレベルを下げなければなりませんでした。最初は苦痛がありましたが、そのうちに慣れました。趣味も捨てました。登山、囲碁に時間を使うことはできませんでしたし、使うつもりもありませんでした。若い私には誇るべき家柄、地位、業績、名誉などはありませんから、これらを損失と見ることはありませんでした。パウロは、キリストを知ることのすばらしさのゆえに、その他のことは塵芥(ちりあくた)のように受けとめると告白しています。僕は塵芥のようには思いませんでしたが、色々なものを捨てて牧師としての働きをしてきました。もちろん後悔はありません。イエス・キリストを信じ、信仰者として、牧師としての歩みができたのは、イエス・キリストのおかげです。
- 私にとって「救いの恵み」とは何でしょうか。第一には罪の赦し、そして義とされ、神との間に平和を得たことです。第二に死を越える希望を得ることができたことです。死の恐怖の奴隷から解放されたことです。第三に新しく生まれ変わって神の子として生きることができることです。具体的には、御言葉によって生きる者とされたこと、つまり聖霊の導きを受けて生きることができることです。第四には、人を愛することを教えられ、妻、家族、教会員を愛していきることができるようにされたことです。第五には、福音を伝え、教会に仕える使命を与えられたことです。イエス・キリストのおかげで豊かに恵みを受けました。
2.イエス・キリストを知っているのか
- でも私はイエス・キリストを知っているのか、という問いが残ります。パウロはイエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさと語ります。そのすばらしさを私はどれほど知っているのか、この問いの前に立ち止まります。この問いを考える手がかりは、イエス・キリストを知るとき、私たちは生き方が変えられるという点にあると思います。つまりイエス・キリストの感化を受けるわけです。私の歩みは、イエス・キリストに倣う歩みへと変えられます。どのように自分の歩みが変えられたのかをはっきりさせれば、どのように自分がイエス・キリストを知っているのかが分かるのではないかと思います。
- 私たちがイエス・キリストに似た者へと変えられることを示す聖句があります。これは私たちがイエス・キリストを知ることによって生じる変化だと思います。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二3:18)。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(ヨハネ一3:2~3)。
- 自分がイエス・キリストをどう知っているかは、自分がどう変えられたのかを振り返ればよいことが分かります。私たちが本当にイエス・キリストを知るとき、そしてそのキリストがすばらしいと思うなら、キリストのように歩みたい、キリストの似姿に変えられたいと願い、そのように行動するにちがいないのです。生き方が変わるのです。パウロも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語っています。
では、自分がどのように変えられたのか、振り返ります。
3.どのようにイエス・キリストを知っているのか。
(仕える)
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)。
牧師として三重県の教会に遣わされた最初の年か、次の年か、記憶は曖昧ですが、地区の中高生のキャンプに参加しました。最後の日のプログラムが終わり、昼食を食べ解散です。食べ終わった人から順次帰って行きます。その時、私の目に年配のS牧師が机の上を雑巾で拭いているのが目に入りました。私は驚きました。と同時に恥ずかしさを覚えました。私の中には、雑巾掛けは私のする働きではない、との思い上がった心があったのです。「仕える」ことの大切さが天から啓示されたような経験をしました。先輩の牧師の姿勢から学びましたが、イエス様から学んだも同然でした。
(従順)
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~7)。
死に至るまで従順であったイエス様。私自身は、信仰により生きることの空しさから解放されたので、自分の思いを追求するというより、神さまに従い、神さまに仕えていこうとの思いが強かったと思います。また自分の罪に打ち砕かれることによって、プライドを捨てることができました。誇るなら主を誇れとのみ言葉にあるように、神さまに従順に歩めることを誇りにしたいと思ってきました。イエス様の死に至るまで、それも十字架の死に至るまでの従順は、徹底したものがあります。中途半端ではありません。これは忘れてはならないと思います。自分のできる範囲で十重になるという態度は、間違いだと知らされます。
(み言葉に従う)
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)。
私の場合、神さまに従順に生きることは、具体的にはみ言葉に生きることと言ってよいと思います。日々聖書を読み、思いめぐらし、聖書を通して神さまが語りかけてくださっていると信じ、その語りかけに耳をすませます。そして私の生活に御言葉を適用します。神さまの声が聞こえるわけではありませんが、神さまの導きと信じて、御言葉の適用して歩みます。適用といっても大げさには考えません。私の日々の生活に対する神さまの指示であり、神さまが私のコーチになってくださるという感じです。
(愛する)
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
愛することほど大切なことはないと思います。互いに愛し合うことより、自分を、自分だけを愛する心が強いのが私たちです。しかし神さまは私たちを愛してくださったので、私たちも互いに愛し合います。特に相手の気持ちを思いやることに心を用います。一番の相手は妻です。家族、教会員を愛するように努力してきました。愛することを教えられたことは本当に感謝なことです。結婚した当初の私は妻に対する配慮なでまったくしませんでした。ある時妻が風邪を引き寝こみました。私が言った言葉。「僕の夕飯は心配しなくていいよ。自分で何とかするから」。その時妻は「私の夕飯はどうなるの」と思っていたそうです。
(み心を重んじる)
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。
私が自分の罪深きことを悟ったのは、神さまの心そのものへの関心を示さないことでした。文字に書かれた神さまの教えは身につけ、これに従う思いで生きてきました。しかし、神さまのみ心そのものに対する関心がないことに気づいたとき、自分の罪深さを思いました。つまり神さまの掟の背後にある神さまの思いに心を向けず、掟を文字通り守って満足する自分がいました。律法学者のようにいつの間にか、自分は正しい人のような気持ちになっています。文字に従ってはいても、神さまの心に従っていたのかどうか。
信仰者になっても、牧師になっても、信仰者としても自分、牧師としての自分に一番の関心があるのです。神よりも自分、何と恐ろしいことか。
(結論)
- 私はイエス様を知り、変えられました。生き方が変えられました。これはよかったことであり、喜ばしいことであり、感謝なことです。自分がよい方向に変えられたのです。ではイエスを知ることの素晴らしさを感じているのか、といわれると「感じている」とは言えない自分を見いだします。キリスト・イエスを知る素晴らしさということを勧化手来なかったからです。
- しかし、イエス様によって自分が変えられたことを今、言葉に表しました。そして今、私はよい方向に生き方が変えられたことを自覚しました。それを言葉で表現しました。これは神さまがしてくださったこと。これはすばらしいこと。それなら、イエス・キリストを知ることは、素晴らしいことなのだと言えるのではないかと今、思います。2019.2.5