ルカ福音書 15章11~32節

2018年10月23日

(内容)

  • 有名な放蕩息子の物語。

(黙想1)

  • 弟息子は、生活に行き詰まったときに我に返ります。彼は気づきます。父の家では大勢の雇い人に、あり余るほどパンがあることに気づきます。自分が飢え死にしそうなときに、つまり自分が危機の時に、大切なことに気づきます。父の家で生きることの幸いに。危機の時、それは大切なことに気づくチャンスです。
  • 彼は家を出る前、父の家の現実を見ていました。大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあることを見ていました。だから今思い出せました。彼は見ていたけど見ていなかったのです。「聞くには聞くが理解せず、見るには見るが認めない」が当てはまりました。これは案外、私たちの現実なのかもしれません。私たちの目が曇らされているのです。わたしたちは自分の見たいものを見、自分が聞きたいことを聞こうとしているのです。
  • 今、自分がピンチな状態にあると考えたら、見えているのに見てこなかったことが見えてくるかもしれません。聞こえているのに聞いてこなかったことが聞こえてくるかもしれません。

(黙想2)

  • 兄息子は弟のことを父に向かって「あなたのあの息子」と呼び、他人扱いです。弟が帰ってきたことを喜ぶことができません。兄息子の気持ちが分からないわけではありません。しかし彼もまた見えていないのです。人間にとって大切なことは、他者との関係性、他者といかに関わって生きるか、です。他者のことに無関心で自分のことしか考えないで生きているのか。他者と共にあることを喜ぶ生き方をしているのか。神を信じていても神のことは考えずに生きているのか、神との関係性を大切にして生きているのかどうか。

(聖書に聞く)

☆神が求める私たちの生き方
  • (警告)見えているのに見ていない、、聞こえているのに聞かない、そういうことが自分の身に起きていないだろうか。
  • (教え)聖書が教える生き方は、他者との関係に生きること、つまり愛に生きること。第一の他者は神、第二の他者は隣人。関係性を大切にすることが教えられる。罪とは、その本質は、関係性を無視すること、軽んじること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、放蕩息子は、父のもとでの生活の豊かさに気づかず、家を出て、自分の思い通りに生きてみました。しかし行き詰まり、父のもとに戻ってきました。行き詰まってこそ見えなかったものが見えてきました。見えてきたものは、以前に見たものでした。「見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解しない」、そういうことが私たちにはあるのですね。行き詰まらないと私たちは自分の歩みをなかなか振り返りません。
  • 今、自分はどんな行き詰まりの中にあるのかと考えます。個人の生活においては特に行き詰まりはありませんが、教会としては伝道の不振に行き詰まっています。どうしていいか分からず、誰も大変だを声を上げず、伝道の不振を見て見ぬ振りをしているような状況があります。
  • 今見るべきものとはなんでしょうか。使徒言行録の時代、キリスト教が世界に広がっていく時は、聖霊の働きが活発でした。伝道者になって間もない頃、誰かが、今の時代は、使徒の時代と違うと語りました。聖霊の目覚ましい働きによる伝道は、今の時代にはあり得ないとの意味でしょうか。あるいは伝道とは礼拝だ、礼拝こそ伝道であると語る声も聞きました。間違ってはいませんが、伝道に正面から向き合わずに逃げているという印象を持ちました。
  • 私たちが見るべきもの、それは使徒言行録の1章8節の言葉だと思います。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
  • そして私たちは、聖霊を賜物として与えられています。あるいは聖霊が私たちのうちにおられます。聖霊なる神さまの働きに期待することができます。このことを私たちは聖書において見ているのに、見過ごしてきたのではないでしょうか。聖霊の導きによって悪霊を追い出したり、病気を癒やしたり、目覚ましいことをすればよいとは思いません。むしろ聖書を神の言葉を確信させる聖霊の働きが大切だと考えます。ヨーロッパでは、礼拝に出席する人が少なくなったと聞きます。現代人は合理的にものを考えようとしますから、神は受け入れがたいのかもしれません。しかし考え方のそこには、キリスト教的なものが宿っているように思います。人間の生き方としてキリスト教の教えがあるにしても、神ご自身が失われています。生きて働かれる神の言葉の発見、神の言葉に生きることから、私たちは力ある証人になるのだと信じます。このことに多くの人が気づくことを願います。
  • 教会で福音は確かに宣べ伝えられています。しかし、聖書が神の言葉だと本気で信じられ、神の言葉によって、生きているかは別です。人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きるとイエス様は教えられましたが、どこかで私たちは聖書の教えを身につけることが御言葉に生きることだと誤解しているのかもしれません。
  • 天の父なる神さま、私は『御言葉に生きるための提案』というサイトを開設しています。このサイトに意味はあると信じていますが、どれほどの影響や効果があるのかは、分かりません。でも私たちが見るべきものを見るなら、聖霊に導かれて神の言葉に生きる人こそ、イエス・キリストの証人であることを知るなら、伝道の進展が見られると信じます。小さなサイトですが、「意義があるから続けなさい」とのあなたの励ましを受けたように思います。あなたのみ心を信じて続けたいと思います。
  • このサイトに出会いたいと願っている人たちが出会うことができるように、技術的な工夫ができます。このことについては勉強をしていますが、具体的な対策はしていないので、これを実施するようにします。導いてください。
☆与えられた導き
  • インターネットで検索する人に、このサイトが知られるように工夫する。