ヘブル人への手紙 12章14~17節
2018年2月5日
(内容)
聖なる生活を追い求めるように、苦い根が現れ自分や周囲の人を苦しめることがないように、みだらな者、俗悪な者とならないように、勧めと警告がなされています。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)聖なる生活を追い求めなさい。
(黙想)
- 「イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされた」(10:10)。私たちは自分の努力で聖なる者となることはできません。神さまがイエス・キリストの犠牲を通して、私たちを聖なる者としてくださいます。私たちは恵みによって聖なる者とされたことを信じます。そう思えるとか思えないとか、実感は関係がありません。どういう神のみ業がイエス・キリストによってなされたのかを聖書は告げています。私たちを聖なる者とする神のみ業が行われました。
- 聖なる者とはどういう人を指すのでしょうか。「ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:26)。この聖句から、聖なる者とは罪を取り去られた者であることがわかります。私たちが聖なる者とされたこと、罪を取り去っていただいたことはまず、信ずべきことです。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)とあるように、私たちが聖なる者とされたことは信ずべきことです。しかし、それは私たちの内から罪がすべて、自動的に取り除かれたことを意味してはいません。私たちは罪のない者とされたわけではありません。次の二つの命題が、私たちに当てはまります。
すでに、私たちの内から罪は取り去られた
いまだ、私たちのうちには罪がある
- 信仰者の歩みは、私たちの内にある罪を一つ一つ取り除いていく歩みです。それは言い換えると聖なる者として歩むということです。たとえば今日の聖書で、「みだらな者となるな」と警告されています。それは私たちの内にみだらな思いがあるということです。みだらな思いが時に応じて湧いてくるということです。しかし私たちは聖なる者とされ、みだらな思いが取り去られたと信じて行動をします。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」(12:1)とあるように、みだらな思いが湧いてきたときには、これを捨てます。つまりみだらな思いを誘発するものに顔を背け、耳を閉じるのです。誘惑とは戦わず、背を向けます。これがみだらな思いに対して「戦って抵抗する」ことです。これを繰り返すことによって、みだらな思いは弱められていき、みだらな思いから自由になっていきます。
- そして今、僕が克服すべきは、最も大きな罪、不信仰の罪か。信仰とは、神を真実な方と認めることです。かつてアブラハムには、神から義と認められたことがあります(創世記15:6)。神は言います「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。そしてアブラハムは「主を信じた」と書かれています。神を信じるとは、神の言葉を信じること、神の約束を信じることです。神は約束を実現させる真実な方であると信じることです。
- 子孫が増えるという約束はアブラハムの死後に実現します。生きている間に実現はしない約束、死後に実現する約束を彼は信じたのです。死後の本当に実現するのかしないのか、彼は確かめることはできません。でも信じたのです。そしてその信仰のゆえに彼は神から義と認められました。
- このアブラハムの出来事は僕の心に深く宿っています。僕もまた自分の死後に実現する約束を信じる者とされています。永遠の命、キリストの再臨、最後の裁き、神の国の実現など、おそらく生きている間には実現しない約束を信じるように招かれています。礼拝の中で使徒信条を告白し、この神の約束あるいは神の計画を信じる者です。でも同時に、これらのことは、現代人としては、何か途方もない絵空事のように思えたりします。信じる気持ちと信じ切れない気持ちが心の中に同居しています。
- 神を信じると言いながら、礼拝で使徒信条を告白しながら、他方で、信じ切れない思いが僕の足を引っ張っています。信じ切れない、それは僕の理性からくる言葉です。信仰には理性を越える面があります。つまり聖霊によって信じるという面です。自分が悔い改めるべき罪人であるというようなことは、理性では信じることはできません。理性に重きをおき、いかにしたら信じることができるのか、空しい努力は打ち捨て、聖霊の導きをいただき、神さまを真実な方とするようになりたく思う。つい理性でもって信じるにはどうしたらよいのかと理性に重きを置く不信仰を悔い改めることが大切と知らされました。
(神の導き)
☆祈り
神よ、あなたは私たちに理性を与えてくださいました。信仰とは理性を働かせるものであり、盲目的に信じるものではないことを信じます。しかし、あなたを信じることに関して言えば、それは理性を越えるものがあります。理性で何とか信じようとする空しい努力をもうやめます。聖霊の導きを求めることにします。理性に重きをおいた罪を悔い改めます。主の再臨、最後の裁き、神の国の到来を心から信じる者としてください。これを信じることによりわたしの歩みに変化を与えてください。
☆与えられた導き
- 理性の重きをおき、信ずべき事柄を心から信じるために聖霊により頼まず、理性でもって信じることができるように空しい努力をする罪を悔い改め、聖霊の導きを祈り求める。