列王記下 6章8~20節
2017年8月29日
(内容)
イスラエルを攻めようとするアラム王の作戦を預言者エリシャは失敗に終わらせます。失敗の原因がエリシャにあることを知ったアラムの王はエリシャを捕らえようとします。大軍がエリシャの家を囲みますが、エリシャと共にいる神の軍勢はアラムの軍勢にまさっていました。エリシャは祈り、神の導きによりイスラエルは戦わずして勝利しました。
(黙想)
- アラムの軍隊の作戦をエリシャがイスラエルの王に知らせたので(9節)、アラムの攻撃は空転しました。これは一度や二度のことではなかったとあるので、イスラエルの王はエリシャを通して、主なる神の働きを知ることができたはずです。アラムの王がエリシャを捕らえるべく攻撃したとき、エリシャは主に祈り、その結果、アラムの軍勢はサマリヤの町に導かれ、捕虜となってしまいました。イスラエルの王がアラムの軍勢を「打ち殺しましょうか」と言ったとき、エリシャは、捕虜を殺さず、アラムの国に戻すよう王に語ります。イスラエルの王は、エリシャを通して働かれる主なる神を知っています。彼は主に対するどんな信仰を持っているのだろうかと考えます。主に対する信頼に生きようとするのかどうか、です。6章の最後を見ると、信頼していないことが分かります。
- アラムの軍勢がエリシャの家を取り囲んだとき、エリシャの従者は、その軍勢の大きさに圧倒され、震えてしまいました。しかしエリヤは彼の目を開き、アラムの軍勢にはるかにまさる神の軍勢を見せました。私たちもまた神の軍勢を見ることはできません。しかし、私たちは、神が共におられることを信じます。神が共におられるということは、行ってみれば、圧倒的な神の軍勢が私たちを取り囲んでいるということです。私たちは、いつも主なる神に信頼することができます。どのような逆境の中でも、主に信頼することができます。私たちの信仰は徹底して神を信じる信仰です。
- イスラエルの王は、エリシャの勧めにより、捕虜を寛大に扱い、主君のもとに帰らせました。その結果、アラムはイスラエルを再び攻撃することはなかったとあります。力を持って争うとき、平和は訪れません。北朝鮮がミサイルを発射し、アメリカが韓国軍と軍事演習を行い、互いに自分の力を誇示し、相手を自分の思い通りにしようとしていますが、平和は訪れないと思います。
- 預言者エリシャには力ある賜物が与えられています。後のイザヤ、エレミヤなどの預言者は奇跡を行うことはありませんでした。預言者エリシャを通して神さまはご自身の力を見せ、イスラエルの王に主なる神に対する信仰に立ち帰らせようとしていることを思います。人間には何事も自分の思い通りに事を運びたいと考える心があり、自分の力の及ばないところを神に助けてもらおうとすることがあります。このような神信仰は、聖書が伝える信仰ではありません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神の軍勢はいつも私たちと共にある。神が共におられることを信じるとは、神の軍勢が私たちと共にあることを信じること。
☆神さまが求められる私たちの生き方
- 敵対する勢力がいかに強くとも、神の軍勢がはるかに多く強いことを信じて歩む。私たちを誘惑する悪魔の力よりも、神さまの力が強いことを信じる。「これはむずかしい」「これは無理だ」などと言って、神が無力であることを認めるようなことは口に出さない。
- 平和は力によってもたらされることはなく、愛によってもたらされる。相手に対して寛容な思いやりのある態度が相手との平和をもたらすことを信じて歩む。
(神の導き)
- 今朝、日本の上空を通過するミサイルを北朝鮮が発射した。平和への道のりは遠いけれど、愛が世界を支配するように、そのために教会が愛の共同体としてこの世に影響力を発揮するようになることを祈る。
- 福音宣教は闇の力との戦いであり、神さまはこの戦いを私たちを用いて行われる。神さまの励ましと導きを祈って、新しいサイトの作成に尽力する。新しいページをつくる。