ヘブライ人への手紙6章13~20節
2018年1月12日
(内容)
神さまはご自身の約束を保証するために誓われる方であり、アブラハムにも「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と語られました。信仰者にとって神さまの約束は希望であり、魂にとっては、頼りになる安定した錨のようなものです。
(黙想)
- 著者は、12節で「信仰と忍耐とによって、約束をされたものを受け継ぐ人たちを見倣いなさい」と勧め、今日の聖書でアブラハムを模範として引用します。アブラハムは根気よく待って約束のものを得たと説明します(15節)。根気よく待って、つまり忍耐して約束の実現を見たというのです。
- 迫害の中にある読者に対して、神の安息に入れられるとの約束(神の国に迎えられるとの約束)を持ち続け、迫害の中にあっても信仰を貫くように著者は勧めていると思われます。迫害の中で自分がどのように神さまに導かれるのかは分かりません。殉教の死を遂げるかも知れないし、遂げないかもしれません。それはどうなるか分かりませんが、信仰を貫き、神の約束を受け継ぐ者として生きようと著者は励まします。
- 著者は、希望は魂にとって、頼りになる安定した錨のようなものだと言います。錨は船の移動を一定の範囲にとどめておくための道具です。嵐があっても船が漂流し流されていくのを防ぎます。希望は、魂が揺れ動くのを防ぐ錨だというのです。本当なのかどうか。
- 創世記を読むと、実はアブラハムは神さまの約束を疑ったことが書かれています。そして彼は妻に仕える女との間に子を得、あたかも神さまの約束の第一歩が実現したと思い込みました。著者はアブラハムの信仰を美化している面があります。それはそれとして、そんな思い込みの中にあるアブラハムに対して神さまは、「いや、それは違う」と語ることはしませんでした。神さまの約束は妻のサラが子を産むことにあります。アブラハムが99歳になるまで神さまは黙って待っていました。そしてアブラハムが99歳の時、神はアブラハムに「来年の春、あなたの妻サラはあなたの子を産む」と語られました。アブラハムも妻サラもそれを信じませんでした。むしろ嘲笑いました。しかしイサクが生まれました。子孫が増えるとの約束の第一歩を神さまは実現させたのです。神さまは時いたって、約束を実現させたのです。ご自身が約束を実現させる真実な方であることをお示しになりました。
- 神さまの約束は必ず実現する、だから神さまの約束を頼みとする者、神の約束の実現を待ち望む者にとって、希望(神さまの約束を期待し続けること)は魂の錨だというのです。この希望にしっかり根を下ろし、魂を落ち着かせることができ、また平安を得ることができると著者は言います。でも創世記のアブラハムは、神の約束を疑い、神さまの約束を人間的な仕方で実現させ、これでよいと思い込んでいました。
- 私たちもまた神の約束を疑うことがあります。この手紙の読者が迫害の中にあって、救いの約束を疑い、あるいは信仰を捨てて命を保つ方が良いのではないかと考えることだってあり得るし、そのことについては6章の最初で著者は語っています。神さまの約束は、私たちにとって希望となります。しかしそれが約束である限りいくらでも疑うことができます。信じたいと思っていても疑いが心の中から浮かんでくるのです。しかし著者は、約束に期待する、それは魂の錨、つまり魂に平安を与え、魂を励ますものだというのです。約束を疑えば魂は動揺するのに、約束が平安を与えるものだと著者は言うのです。つい疑ってしまう私たちには、約束が平安を与えるというのは、すぐには受け入れられません。信仰者の現実とギャップがあるように思えます。
- 信仰者は仕方なく死ぬのか、望みを持って死ぬのか、と考えます。私たちには神の国に迎えられるとの希望があるので、恐れることなく死を迎えることはできます。この希望のゆえに、神の国に迎えられることにワクワクして死ねるのか、神の国の希望はあるが、でも仕方なく死ぬと思うのか。こんなことを私は考えています。
- そうすると問われるのです。神の約束を疑うあなたはいったい何者なのだ、と。あなただって自分の言葉を人が信じてくれないと悲しいし、「私の言葉を信じないとは、お前はいったい何者なのだ」と言いたくもなります。神さまの約束を疑う、それは神さまを信頼しないことにつながります。神さまを疑いつつ神を信じる生活を送っているというのは、偽善となるのではないでしょうか。神を信じていると公言し、福音を伝える牧師としての顔を見せながら、神の約束を疑うとしたら、偽善者です。わたしは偽善者なのか、と思わされます。
- 神の国の希望を持つなら、仕方なく死ぬとの思いは持たず、神の国に迎えられる期待で心はふくらむはずです。死の時が来たら、喜んで死を迎えるのです。仕方なく死ぬのではないのです。神さまの約束が力にならないとするなら、それは約束を本当には信じていないと言えます。でも本当に信じ切るということもあり得ないように思います。疑いが湧いてくるのをとめることはできません。
- 私たちは疑いとの戦いがあります。疑いと戦う時、神の約束を疑うあなたは何者だという問いが迫ってきます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)神さまは約束を実現させる方です。神さまは誓いをもって、約束の実現を保証する方です。
☆神が求める私たちの生き方
- (約束)神さまの約束は実現します。それ故、神さまの約束は私たちの希望となり、また力となり、励ましとなります。それ故、神さまの約束に信頼します。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、あなたの約束を待ち望む希望は、魂にとって錨であると書かれています。錨は船の動きを一定の範囲におさめます。嵐の中にあって、船がどこかへ行ってしまうのを防ぎます。そのようにあなたの約束に対する希望は、魂を安定させるとありました。他方で、私たちはあなたの約束といえども疑う心があります。この疑いにどう対処したらいいかかを考えます。そしてあなたからの問いを聞きます。「神の約束を疑うとは、いったいあなたは何者なのだ」と。このあなたの問いを聞いて、今日は少し驚いています。私とはいったい何者なのか、考えてみたいと思いました。
☆(与えられた導き)
- 神の約束を疑ったりする自分は何者なのか、思いめぐらす。