マタイ福音書6章1~6節 偽善者にならない
2023年11月17日
(内容)
- 施しをする時、祈る時、人に見てもらおうとしてはいけない。それは動機が不純とであり、その結果、人は偽善者となる。
(黙想)
- 人間の行動には動機がある。善行も人に見てもらおうとする時、それは偽善となる。自分は善行を行っていると人に認められようとする。それは偽りの善、偽善であるとイエスは言う。施しにおいて、祈りにおいて、私たちは偽善者となり得る。
- 偽善者は既に報いを得ているという。良いことをしているのね、と人からよく思われることが報いであり、報いを得ているという。このような報いは、一時のものであり、むなしいと思う。しかし人は、自分が良く思われることを求めがちである。
- イエスは天の父の報いを求めよと言っている。人からの報い、天の父からの報い、どちらを選ぶのか、選択の問題なのか。報いを得るという動機はいかがなものか。
- イエスは、隠れて行うなら、天の父が報いてくださるという。天の父の報いがどのように現れるのかは語られていない。天の父の報いは、目に見える形で現れるとは限らない。
- この6章では、繰り返し天の父が登場する。キリスト者は天の父を意識して生きる。天の父の前に生きる。天の父の前に生きる者としてどのように振る舞うべきかが問われる。
- 16~18節では、断食についても、偽善者のようであってはならないと注意される。キリスト者としては、ひたすらに、神との交わりに生きることを念頭に置くことが大切となる。神を愛し、人を愛する心で生きる。事をなす。
- さらにまた天の父が完全であるように、キリスト者は天の父の子として完全を目指して生きる。そのような中で、施しをし、断食をし、祈りをするのである。
- そこで日々の生活の中で、どんな動機で行動しているのかが問われる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>隠れた行いを見ておられ、報いを与えてくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>人の賞賛を得ようとして行動してはならない。
- <警告>偽善者とならないようにすること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。何よりも、自分がキリスト者として、天の父の子として振る舞うべきことを教えられます。注意しなければならないことは、人の賞賛を得ようとして振る舞ってはならないということです。
- 私自身が他者の前で行動することと言えば、説教をすること、祈祷会で祈ること、発言することぐらいです。人の賞賛を得ようとする動機があるのかと言われたら、幸いなことにほとんどないと思います。そのような動機がいつ心に湧いてくるかはわかりませんので、心の動機には敏感になりたいと思います。
- そして人の賞賛を求めないように自分の心が変えられてきたことを感謝します。以前は、牧師として働く中で、よくやっていると思われたいとの思いもありましたが、それは結局疲れをもたらしました。神の前ですべきことをすれば良いと考え、心が乱れなくなったことがありました。
- 心が変えられたことを感謝し、同時に、日々の心の動機には敏感でありたいと思います。
☆与えられた導き
- 日々の心の動機に敏感になる。