マタイ福音書 6章5~9節
2020年9月10日
(内容)
- イエスは祈る時にも偽善者のようであってはならないと教えられる。人に見られないところで祈り、くどくどと祈らず、父なる神が自分の必要を知っておられることを思いなさいと教えられる。
(黙想)
- 「祈る時にも」。直前の善行や施しの教えもそうだが、イエスは、偽善者のように振る舞うことを禁じる。何をするにも我々は偽善者のように振る舞う可能性があるから気をつけなければならない。
- 偽善者は人からの賞賛を得ようとする。そのために自分の行動を見せる。イエスは、父なる神はあなたがたの隠れた行動を見て報いてくださると告げる。これは施しの教えでも言われている(6:4)。つまり私たちは神の御前に生きているのである。神が私たちのことをご覧になっている。私たちの罪に目を留めることもあるし、私たちの行いに報いようとされていることもある。人の賞賛を得るのか、神の報いを期待するのか。人の賞賛は見える。神の報いは分かる形ですぐ来るとは限らないと思う。だから信じることが大切だ。神は憐れみの神、慈しみ深い神、恵みの神である。
- 異邦人は言葉数が多ければ祈りは聞かれると信じてくどくど祈る。イエスは真似をするなと言われる。異邦人は、神は言葉数を多くして祈れば祈りを聞いてくれると考える。あたかも神を自動販売機のように考えている。自動販売機は、お金を入れれば欲しいものが出てくる。言葉数が多ければ祈りが答えられる、これは神を自動販売機にする考え方である。神は人格を持つ方である。私を信頼しなさい、あなたの願いは分かっていると言われる神である。私たちが祈るのは人格を持つ神であることを忘れてはならない。
- さらに神は私たちが祈る前から、私たちの必要なものをご存じであるとイエスは教える。そして「だから」と「主の祈り」を祈るように教える。
- 神は私たちが必要なものはご存じなので、必要なものを求めるとき、くどくど祈る必要がないとイエスは教える。ここでは祈り願うものは、生活に必要なものである。祈りには他にも執り成しの祈りもある。執り成しの祈りの場合は、なぜ執り成すのか、その理由を神に告げてもよいと思う。それは神が知らないからではなく、自分がなぜ祈るのかを自覚するためである。
- 教会で祈祷会への参加が勧められる。人前で祈ることを嫌がり、祈祷会への参加をためらう人がいる。自分の祈りを人がどう思うかが気になるのだ。つたない祈り、初心者の祈りなどと思われることを恐れる。裏返せば、自分の祈りをほめてもらおうとする偽善者と同じである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私たちの隠れての祈り、人に見られないところでの祈りに報いてくださる方である。
- <御父>私たちが必要とするものをご存じの方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>人に見せよう、人の賞賛を得ようとの思いで行動することは偽善者になることであり、避けるべきである。
- <勧め>自分は神の前に生きていることを覚え、神に信頼して生きるべきである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたは私たちの必要をご存じの方です。それなら、必要なものを求める祈りは必要ないとする人もいます。でも私は、人は自分が何を必要としているのか、本当は分かっていないという面もあるし、自分が何を必要としているのかを深く自覚する必要があるという面もあると思います。
- そしてあらためて今、自分が必要としているものはないか、と思います。今のわたしにとって福音の証人としてブログを書き続けることは使命であると感じています。課題は何を書くのか、です。書きたいことがたくさんあるわけではありません。何を書こうか、書く題材がないときもあります。それ故、福音の証人として書く題材を与えてくださいと祈ることにします。
☆与えられた導き
- ブログに書く題材を与えてくださいと日々祈る。