マルコ福音書 14章43~52節 聖書の実現

2022年12月17日

(内容)

  • イエスがゲッセマネの園で祈り終えた時、ユダに率いられた者たちがイエスを捕らえに来た。弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまった。

(黙想)

  • イエスが逮捕される場面である。イエスの予告通り、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまった。人は恐れに捕らわれると自分を守ろうとする。人が恐れを抱くことは悪いことではない。人が無茶をして自分を傷つけることがある。恐れを覚え、無茶な行動を抑制することはよいことである。他方で、勇気をもって恐れに立ち向かい、自分がなすべき行動をすることの必要なときもある。このような時に人は恐れに負け、しばしば保身に走り自分を守ることを優先し、なすべきことをしないことがある。
  • 弟子たちはイエスを見捨てて逃げた。この場合、弟子たちはイエスを守り、捕らえられないようにすべきだったのかどうかはわからない。イエスはあらかじめ、弟子たちが自分を見捨てることを予告した。その時弟子たちは、それを否定した。しかし今、事実となった。人は自分が大切な人を見捨てるような薄情な人間だとは考えない。しかし事が起きると見捨てる弱さを持つことを思い知らされる。
  • 信仰者として私たちが日々生きているとき、キリスト者としてふさわしくない行動をすることがある。それが私たちである。弱さを抱えている信仰者である。弱さを恥じる必要はない。「恐れるな」と言われる方がおられることを知ることは大切だ。
  • イエスは、自分の身に起きたことを聖書の言葉が実現したと考えている。14章27節で、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」との聖書の言葉をイエスは語り、弟子たちがイエスを見捨てることを予告した。
  • イエスはこの言葉が実現したと言っているのか。それとも旧約聖書に書かれている救い主待望の出来事が実現しつつあることを語っているのか。ここではイエスが捕らえられることに対して聖書の言葉の実現とあるので、救い主を待望する旧約聖書の言葉の実現と考えるのが良いだろう。
  • イエス・キリストによる救いというのは、歴史の中で明らかにされた救いである。イスラエルの民は、神の民でありながら、神に背いて罪を犯して生きていた。そして神の裁きを受け、国家を失いもした。人間にとって最大の問題は罪であり、罪の解決をもたらすのがメシア、救い主である。
  • 現代、色々な問題が起きているが、やはり問題の根にあるのは罪である。代々の教会は福音を宣べ伝えてきた。それは今も変わることがないし、これからも宣べ伝えるだろう。罪の問題が解決するのはイエスが再臨し、最後の裁きが行われ、神の国が完成するときである。それまで教会は福音を宣べ伝え続ける。時が良くても悪くても。
  • イエスは聖書の実現を待ち望み、捕らえられ、十字架の死を受け入れている。聖書の実現を大切にするイエス。
  • 今は待降節。主イエスの再臨を待ち望む季節。僕もイエスの再臨、聖書の実現を待ち望む者として生きていきたい。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>聖書の実現を大切にする方。聖書の実現、つまり神の救いの計画に仕える者として生きる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>自分の弱さを知ること。
  • <模範>聖書の実現を大切にする主イエスに見倣う。この世界の歴史は、人類を救うという神の救いの歴史でもある。その歴史の中でイエスは自分の役割を果たされた。終末、再臨という聖書が約束する出来事を待ち望む者として生きること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日は主イエスが捕らえられ、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げる場面を読みました。恐れに捕らわれるときに、保身に走り、してはならないことをする私たちです。試みに遭わないように、お守りください。
  • 今日の聖書では、主イエスが聖書が実現するために自ら捕らわれることを受け入れました。さらには十字架の死をも受け入れておられます。聖書が実現する、そのことを私も大切にしたいと思います。今はクリスマス前、待降節です。主イエスが再臨されるのを待つ季節です。主の再臨を覚え、自らの歩みを整えたいと思います。弟子のトマスのように疑い深い私がいることを知っています。天の父よ、私を信じる者として下さるように願います。再臨を待ち望み生きる者となります。導いてください。
☆与えられた導き
  • 再臨を待ち望む者として生きる。