マルコ福音書 14章53~65節 愚弄されるイエス
2022年12月21日
(内容)
- イエスは、最高法院で裁きを受けた。大祭司は、イエスに「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねた。そしてイエスは死刑宣告を受けた。
(黙想)
- 最高法院でイエスは裁かれる。偽証がなされるがイエスを死刑に定める決定的な告発はされない。そこで大祭司が自ら質問をする。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」との問いに「そうです」と答え、さらにイエスは「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」と答えた。大祭司は、これを神を冒とくする発言であると見なし、その結果、イエスを死刑にすべきとの決議がなされた。
- それから、ある者は、イエスにつばを吐きかけ、こぶしで殴り、下役たちは平手で打つなどイエスを愚弄した。
- 宗教指導者たちは、神が送ったメシアを受け入れることがなかった。人は自分の考えにこだわる傾向がある。新しい考えに心が開かれていないと新しいものを拒む傾向がある。あのパウロさえ、イエスを最初受け入れることができなかった。人は真理の前に謙遜になることが大切だ。
- 聖書をどう理解するのか、神学的な立場がある。その立場は信仰の土台となるものであるから、大切である。しかしそれに固執するとき、自分の考えと異なるが大切なものを拒む可能性があることを忘れてはならない。
- 死刑と宣告されたイエスをある者たちはつばを吐きかけ、殴るなどイエスを愚弄した。卑劣な態度である。優越的な立場に立って弱い者を愚弄し、喜びを感じる、ひどい態度だ。優越感を感じるとき、人は無意識のうちに他者を愚弄することがあるかも知れない。
- イエスは「あなたはメシアか」と問われ、「そうです」と答え、身の証しを立てた。イエスは同時に人々による愚弄を受けた。イエスはそれに耐えた。怒ることなく、あらがうこともしなかった。
- イエスはただ神の救いの計画に献身する。人から愚弄されることは自分のプライドが傷つけられることであり、人は通常怒る。しかしイエスは怒らなかった。十字架の上でイエスは「父よ、彼らを赦してください。何をしているのかわからないのですから」と祈られる。
- 人は何を第一として生きるのか、問われる思いがする。イエスは自分のことを第一としてはいない。御心の実現することを優先している。
- 神である方が人となり、しかも神を冒とくする者として死刑を宣告され、つばをかけられたり殴られたり愚弄される。そんなことが起こりうるのか。人間を罪から救うために世に来られた方が、救い主を殺すという人間の罪によって殺されてしまう。これほど救い主らしからぬ歩みと最後を迎えるなんて信じがたい。しかし主イエスは救い主である。それ以外の方法では、人は救われない。
- 今、自分の目の前に愚弄されたみじめなイエスが現れたら、キリスト者である自分はどう感じるのか。イエスに何を語るのか。イエスにどんな働きかけをするのか。
- これほどに自分を低くした方はいない。低きに下る極みである。これほどの低きに降られるなら、人間的には屈辱の極みでもある。十字架の死に至るまで神への従順を尽くすイエスは、屈辱にもみじめさにも耐えておられる。
- 聖書を読むということは、この方と出会うことである。僕は今、この低きの極みにあるイエスと向かい合っている。この方は、僕の救い主である。
- 神はなぜ、救い主をこのような目に遭わせるのか。そうまでしなければならない罪からの救いとは何なのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>「あなたはメシアか」との時に「そうです」とはっきりと身の証しをする方
- <御子>人々の嘲り、愚弄に耐える方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>このイエスをどう受けとめるのか
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、主イエスは救い主としてこの世においでになりました。神である方が人となり、救い主としておいでになったのに、人々は主イエスを受け入れず、死刑に宣告しました。それだけでなく、ひどい愚弄を浴びせました。
- 主イエスはなぜ、このような愚弄にも耐えたのでしょうか。人間を罪から救うためですね。今日はこの愚弄された惨めな姿の主イエスが私の目の前に現れたら、私はどのように振る舞うのか、どのような言葉を主イエスにかけるのか考えさせられました。さらに思いめぐらしたいと思います。
☆与えられた導き
- 主イエスのことを思いめぐらす。
~~~~~~
主にかける言葉
「主よ、あなたから愛することを教えられました。ありがとうございます」。