マルコ福音書 6章14~29節 イエスは誰か
2022年3月2日
(内容)
- イエスの評判が領主ヘロデの耳に入った。ヘロデは、イエスは洗礼者ヨハネが生き返ったのだと思った。そして洗礼者ヨハネが亡くなった次第が書かれている。
(黙想)
- イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた(1:9)。そしてヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤで宣教を始めた(1:14)。
- イエスの活動は人々の注目するところとなり、人々はイエスのことを洗礼者ヨハネが生き返ったとか、エリヤだとか、昔の預言者のような預言者だと言っていた。人々の噂を聞いて領主ヘロデは、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと考えた。
- 17節以下で洗礼者ヨハネが亡くなった経緯が語られる。亡くなった経緯を語ることを通して、マルコは何を伝えたかったのか。
- 人々はイエスが誰なのか、自分の思うところを語っている。後にイエスが、人々は自分のことをどう言っているのかと聞いたとき、弟子たちは、洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人と答えたことが8章に書かれている。人々はイエスに注目したが、イエスが誰なのか、理解できるはずはなかった。弟子たちはイエスに問われ、神の子キリストと答えてはいるが、イエスがどんな救い主なのかはまだ理解できてはいない。十字架の出来事が起きていないのだから、イエスが誰なのか、分からないのは当然である。
- マルコ福音書は、イエスが神の子キリストであることを証しするために書かれた。私たちはイエス・キリストについて知るべき十分なことをこの聖書から読むことができる。教会の礼拝での説教を聞くことができている。マルコは私たちに「私のことを誰というのか」とのイエスの問いに直面させていると言うことができるのではないか。
- 領主ヘロデは、洗礼者ヨハネから話を聞くことは喜んだが、そこにとどまった。神との関わりに生きようとはしなかった。
- イエスを誰というか、イエスはどのような救い主と告白するのか、それによって信仰の歩みが決まる。その時、聖書が語る福音をきちんと聞き取ることが大切である。
- 権力者が人の命を何とも思わない姿が書かれているが、これは今も同じである。ロシアがウクライナに軍事侵攻した。多くの人命が失われているが、ロシアの権力者は多くの人命が失われる事実をどう考えているのか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスをどのような方と告白するのか、今一度確認すること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。イエス様をどのような方として告白するのか、大切です。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き、この福音書を書いています。イエス様をどのような方として告白するのか、それは福音をどう理解するかに関係しています。
- 天の父なる神、礼拝の中で司式者が「私たちは罪赦された罪人です」と祈りの中で語るのを時々聞きます。とても残念な思いになります。キリスト者は罪を犯しますが、あなたは私たちを愛し、神の子として取り扱ってくださいます。それなのに自分は罪人だと語り、罪を犯しても赦していただけると考え、罪の支配から解放されることを求めないのです。罪からの解放という福音を知らないのです。聞かされていないのです。この福音を語らない説教者もまた自分が罪人だと思っているのでしょうか。
- 聖霊の導きにより、私たちは聖なる者とされ、イエス・キリストに似た者とされていくという信仰者の幸いを味わい知ることのない信仰者人生って何なのでしょうか。
- 天の父なる神さま、今日は信仰者のアイデンティティーは神の子にあることを伝える説教を作成したいと思います。「罪人」を自分のアイデンティティーにしている人を目覚めさせる説教です。福音なきキリスト者の生き方を説く説教は、罪意識を生み出すだけの説教になってしまいます。これでは伝道はなかなかできません。このようなキリスト教会の状況を顧み、福音が大胆に宣べ伝えられるようにしてください。
☆与えられた導き
- 説教を作る