第二コリント 11章1~6節(2)惑わされない教会
2021年11月20日
(内容)
- パウロは、コリント教会の人たちが偽使徒たちの語ることを易々と受け入れたことに驚いている。
(黙想)
- パウロはこう語る。4節。
なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。
- 考えてみると私たちには聖書があり、福音が何かを確かめることができる。異なるイエスをだれかが宣べ伝えたら、聖書で確かめることができる。しかしパウロの時代、しかも異邦人であった信仰者には確かめる手段はない。パウロはこう語った。今度来た人たちはこう語っている。どっちが本当なのかと迷う。そして今目の前にいる人たちの影響を受けてしまう。そこでパウロは手紙を書いてコリント教会の人たちを指導しようとしている。
- 使徒言行録17章でパウロはペレアの町で伝道した。ユダヤ人の会堂で伝道した。するとその地のユダヤ人は「非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」と興味深いことが書いてある。ユダヤ人なら聖書があり聞いたことが聖書に沿っているかどうか確認できる。
- しかし異邦人であるコリントの人たちには、それができず、惑わされることとなってしまった。
- パウロは、コリント教会の人たちに「よく我慢している」と皮肉を語っているように思える。パウロとしては半分落胆の気持ちもあるのだろう。福音を聞いてそれを自分のものにすることは簡単なことではないを教えられる。福音は知識として知ればよいのではなく、その福音に生きてこそ、自分のものになる。パウロはそのように導いたと思うが、十分ではなかった。パウロは宣教のために次の場所に行かねばならないから、それは仕方がない。
- 異なったイエス、異なった福音を宣べ伝える教師が来たときに、「それは違う」と言える信仰者を育てることは大切である。神が抱いている熱い思い、パウロが抱いた熱い思い、それは信仰者を育て、神を喜び、神に仕え、神に信頼し、神に従う信仰者を育てたいという思いではないか。パウロはそれを信仰者をキリストに献げることと語る。信仰者を神のものに導き育てることは今日も大きな課題であると思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>熱い思いを抱く方。
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>パウロも神に倣い、熱い思いを抱いてキリストを宣べ伝えている。
- <警告>異なるイエス、異なる福音が語られたとき、惑わされないようにする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、偽使徒がコリント教会でパウロが宣べ伝えたのとは異なるイエスを宣べ伝え、異なる福音を宣べ伝えました。するとコリント教会の人たちは惑わされてしまいました。これはとても残念なことです。ガラテヤ教会においても信者たちは惑わされました。
- 今日では、教会には牧師がおり、異なる福音、異なるイエスを宣べ伝えるということは少ないと思います。しかし福音を余すところなく宣べ伝えているかといえば、そうでないことはあると思います。福音は、キリストを信じる者を生まれ変わらせ、罪に打ち勝つ者とし、キリストの証し人にしていきます。どの教会でもこのことがきちんと説教されているとは限らないと思います。福音を罪の赦しと狭く解釈して説教する人もいます。福音を余すところなく宣べ伝える、これを目指すのが教会の課題です。
- 完全な教会はありません。どの教会にも欠けはあり、欠けを抱えながらその働きをしています。一つ一つの教会をあなたが導いてくださるように願います。牧師の働きを引退した身として、かつて自分が仕えた教会を覚えて祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- かつて仕えた教会を覚えて祈る