第二コリント 5章11~15節 キリストのために生きる
2021年8月21日
(内容)
- パウロは、外面を誇っている人たちに影響されているコリント教会の人たちにパウロたちを真に知るように願っている。
(黙想)
- 11節。主に対する畏れを知っている者として、人々の説得に努めますとパウロは語る。パウロはまず、自分たちのことを「主に対する畏れを知っている者」と書く。なぜわざわざ「主に対する畏れを知っている者」と書くのだろうか。それはパウロが主に対する畏れを持っているからである。外面を誇るような人間にはこのような言葉は口から出てこない。パウロは主に対する畏れを持っていると知るべきなのである。人の口からはその人の信仰に由来する言葉が出てくる。
- 人々とは誰か。コリント教会の人たちだろう。パウロは、自分が神さまによってありのままに知られているように、自分のありのままを、自分の真実な姿をコリント教会にも知って欲しいとパウロは願う。
- 普通、人はありのままに自分を知られることを恐れ、自分を装ったり、仮面をかぶったりする。しかし神の前に生きる者としては、そのような装いは本来必要ない。パウロは自分たちが使徒として働いているので、神に遣わされた者として真実に生きていることを知って欲しいのである。そんな気持ちが表れている。
- 自分が牧師として働いているとき、自分をありのままに知られることを願っただろうか。自分をよく見せたい、そういう思いがあったのではないか。ありのままに知られるより、よく見てもらいたいとの思いがあったと思う。立派な牧師であるとみられたい、そんな思いと戦ってきた。
- 12節。内面ではなく、外面を誇っている人たちのことが語られる。この人たちは一見して立派に見える。だから、その語ることを人々は聞く。そして影響される。外面を誇る人たちがコリント教会の人たちを惑わしていたことが予想される。その結果、コリント教会の人たちはパウロに対する信頼を失っていく。
- これに対してパウロは、「わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供している」と語る。1章14節でもパウロは似たことを語っている。「あなたがたにとっても私たちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい」。
- このような言い方を私たちは普通しない。それだけに、自分たちの真実な姿を知って欲しいとのパウロの強い気持ちを感じる。
- 13節。「わたしたちが正気でないとするなら・・・」、「わたしたちが正気であるなら・・・」。ここで「正気」という言葉を使っている。これはどういうことか。12節の「私たちのことを誇る機会を提供している」との発言を受けてのことか。このような発言をするのは正気の沙汰ではないと考えることはできる。
- それとも外面を誇る人たちがパウロたちのことを「正気ではない」などと言っているのかどうか。パウロの書き方からして、パウロの態度をコリント教会の人たちが、「正気」ととるのか「正気でない」ととるのか、パウロには分からない面がある。
- 使徒パウロは、福音を伝える。神に対して熱心に仕える。それは普通の人から見れば、正気を失うとみられるのかも知れない。あそこまで熱心にできるなんて尋常ではない、と人は見るかも知れない。パウロはキリストを宣べ伝えるために、どんな苦難に遭ってもくじけない。それは正気の沙汰ではないと言える。
- パウロはしかし正気でもある。パウロは浮かれて宣教しているわけではなく、相手に福音を届けるために最善の言葉を使っている。極めて正気である。
- 正気でないなら、それはパウロが神のために働いているからであり、正気なら、あなたがたのためという。
- 14節。キリストの愛がパウロたちを駆り立てているという。キリストの愛に駆り立てられて行動しているというのだから、尋常ではない。キリストの愛に駆り立てられる、どういうことか。言葉として理解はできても、実際にどういうことなのか。キリストの愛に駆り立てられたことのない僕にはパウロの言っていることが心では分からない。
- キリストの愛に駆り立てられるパウロには、キリストとの出会いがある。キリストはすべての人を救うために死んだ。だからキリストは救い主なのである。パウロはここでさらにキリストが死んだなら、「すべての人も死んだ」という。
- 15節。パウロの場合、キリストに出会った結果、生き方が変えられた。自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるようになった。キリストとの出会いは、自分のために生きる自己が死に、自分のために死んでくださった方のために生きる、新しい自己が生きる。この自己の転換をキリストがパウロにもたらしたのである。
- このように語り、パウロは自分たちが本当に神に遣わされた者であることを伝えようとしている。信仰者として外面的にどのように誇ったとしても、キリストによって変えられるということがない限り、外面的な誇りは意味のないものである。
- キリストの愛に駆り立てられるということは僕にはないが、キリストに僕は出会った。自分のために生きる「古い人間」はキリストと共に死んで、キリストのために生きる「新しい人間」として今生きている。
- パウロはキリストの愛に駆り立てられている。どんな気持ちなのだろうか。考えて分かることではない。キリストの愛は、私たちを駆り立てるだけではなく、静かに私たちの心を動かすこともあるのではないか。僕はそうだ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>キリストの愛は、私たちを変える。キリストのために生きるように導く
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>主に対する畏れを知るとは、パウロの証しの言葉、信仰の告白でもある。証しの言葉を語りたいと願う。
- <教え>キリストを信じるとは、キリストと結び合わされ、死ぬことである。罪を犯す古い私が死ぬことである。古い私が死ななければ、キリストのために生きることはできない。キリストに出会うとは、古い私が死ぬことである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あらためてパウロのキリストとの出会いは大きな体験であったことを知らされます。イエス様がすべての人のために死んだのなら、すべての人も死んだことになるとパウロは語ります。
- キリスト者は、本来、洗礼を受けてキリストに結びつけられ、古い自分が死にます。しかしキリストは復活され、キリストに結び合わされた信仰者も新しい人となって生き始めます。これは霊的な経験であり、聖霊の導き、あなたの導きなしには体験できません。私はこの導きを頂きましたので、本当に感謝です。
- 霊的な体験なので、これを知らないキリスト者もいると思います。聖書を読めば書いてありますが、すぐに理解できるとは限りません。このことについて考えを整理した上でブログに書き、伝えたいと思いました。キリスト者が本来いかなる者なのかを伝えたいと思いました。導いてください。
- なお父なる神さま、私をキリストに出会わせてくださり、キリストと結び合わされ、古い私が死に、新しい私が今生きていることを感謝します。キリストに結び合わされて変えられることを伝え、信仰に生きる喜びを分かち合いたいと思いました。導いてください。
☆与えら得た導き
- キリストに結び合わされた信仰者の変化について考えを整理し、ブログに書く。