マルコ福音書 2章23~28節 律法主義を越えて
2021年8月18日
(内容)
- イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通っていった。弟子たちが麦の穂を摘んだことをファリサイ派の人たちが咎めた。それに対してイエスは反論をする。
(黙想)
- 23節。安息日にイエスと弟子たちが麦畑を通っていった。その時、弟子たちは麦の穂を摘み始めた。ルカやマタイには、弟子たちはお腹が空いていたこと、そして積んだ麦の穂を食べたことが書かれている。マルコは弟子たちが麦の穂を摘んだ理由は書いていない。そこまで詳しく書いていない。
- 24節。状況がちょっとわかりにくい。弟子たちが麦の穂を摘むのをファリサイ派の人たちが見ていたと思われる。それで早速イエスに抗議するのである。イエスは弟子たちとだけで歩いていたのではないになる。人々もイエスの後についていったのだろうか。そしてその中にファリサイ派の人たちがいたのか。弟子たちの行動をファリサイ派の人たちが見ているという状況は、どんな状況なのか。
- 少なくとも、弟子たちが摘んでいるのをファリサイ派の人たちは見ている。後になって弟子たちが麦の穂を摘んだことを知って、イエスに抗議しているわけではない。
- 状況は不鮮明であるが、問題なのは、ファリサイ派の人たちとの論争である。ファリサイ派の人たちは、弟子たちの行為を安息日にしてはいけない行為として、イエスに抗議した。安息日のどんな戒めに背くことになるのか。安息日には「いかなる仕事もしてはならない」と十戒にある。
- 麦の穂を摘むことがこれに該当するのか否か。あるいは別の戒めがあるのか。ないとするなら、本来安息日に仕事をしてはならないという戒めが適用されたことになる。安息日にしてはいけない事柄がリストにされていると言われている。そのなかに罪の穂を摘むことが禁じられているのか。詳細は分からない。
- 麦の穂を摘む行為を収穫の行為と考え、律法違反と見なすとするのは、戒めの愚かな適用である。
- 25節。イエスはダビデに言及する。ダビデは空腹だったとき、神の家に入り、祭司しか食べてはいけないとされる供えのパンを食べた。これは安息日の戒めとは関係ないが、戒めは何のために与えられているのかを考えさせる。そこで、イエスは安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではないと反論された。
- そもそも安息日の戒め(仕事をしてはいけない)は、人のために定められたのである。戒めによって人を不自由にするのは戒めの本来の意図ではない。イエスはこのように反論した。もっともである。
- 安息日は人のためにあり、人が安息日のためにあるのではないとのイエスの言葉は極めて道理にかなう言葉である。それを非難するということは、ファリサイ派の人たちの考えが歪んでいるということでもある。
- 律法主義という信仰形態は克服されるべきものである。古い布きれであり、古い革袋である。
- キリストを信じる信仰は、戒律宗教ではない。神との交わりに生きる信仰であり、神の約束を信じて生きる信仰である。
- さらにイエスは「人の子は安息日の主である」と言われた。人の子は、イエスを指す。人の子は、メシアを意味する言葉でもある。イエスはご自分が安息日の戒めの上に立つ者、神の戒めの上に立つ者であると語られた。これはファリサイ派の人たちには見逃せないことである。つまりイエスは自分を神のごとく考えているように見えるから、見逃せないのである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御子は安息日の主である。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>道理にかなうことは大切である。道理にかなわないことは慎重に吟味する必要がある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。ファリサイ派の人たちは、ある意味で自分たちの伝統に従って生きています。律法主義に生きています。そして律法の悪しき適用に陥っていました。しかしイエス様は、彼らの抗議に対してきっぱりと反論をされました。
- 伝統に従う、それは大切な面もありますが、それに縛られてしまってはいけないという側面もありますね。何が正しいのか、真理なのが、謙遜に見極めていくことの必要を思いました。
- 来週の説教原稿を昨日の夜書き上げました。自分の考えを押し出すことに迷いがありました。しかし正しいと信じるなら、それを主張することも大切だと思って原稿を書きました。そして今日、このイエス様の物語を読み、私の決断をあなたがよしとされていると感じられてうれしく思いました。
- もう一度原稿を見直します。そして説教のために祈りたいと思いました。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 原稿の見直しと説教のために祈り