第一コリント 15章50~58節 終末の日の出来事
2021年5月10日
(内容)
- 復活において、キリスト者が完全に変えられることが語られる。朽ちるものが朽ちないものを着る、死ぬべきものが死なないものを着る。そして死に対する勝利が得られる。
(黙想)
- 今から二千年近く前にパウロがこのようなことを書くことに驚きを覚える。昔の人の妄想・願望と切り捨てることはできるし、死を越える希望を比喩的に語ったに過ぎないと考えることもできる。しかし「わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」とパウロが語るのを見て、パウロが書いていることは神の啓示により知らされたことと理解したい。
- 自分がこの世を去り、死者の中に加えられるとしても、いつの日か朽ちない者に変えられるのを経験することは素晴らしいことにちがいない。これを越える喜びを私たちはこの地上では経験できないのではないか。
- 「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と死に対する勝利を宣言している。僕も宣言したい。
- 「死のとげは罪である」。これをどう理解するのか。ロマ書5章によれば、人は罪を犯した結果死ぬこととなったとある。とげは私たちをさす。罪というとげにさされるとは、私たちが罪を犯すことであり、その結果、私たちは死ぬ者になったことを「死のとげは罪」と語ったのではないか。
- 「罪の力は律法です」。律法は聖なるもの、よいものである。しかし私たちは律法によって罪を知る。私たちは罪を犯したことを知る。そして律法を利用して罪は私たちに罪を犯すように働きかける。復活した時、私たちは死と罪に勝利する。
- 「勝利を賜る神に感謝しよう」と語ることは言い換えると、この世にあって私たちは罪との戦いをしていることを意味している。死がもたらす恐れとの戦いがあることを意味している。キリスト者は死を越える希望を信じて恐れに勝利し、聖霊の助けによって罪に勝利しつつこの世で生きる。そして罪こそ、人間の最大の問題であったことが終わりの時に明らかにされる。そして罪と死に対する勝利を感謝することとなる。
- 終末にこそ、信仰者にとって最高のイベントが待っているということができる。死は終わりではない。死の向こうにこそ、キリスト者の歩みの真のゴールがあるのではないか。
- 「動かされないようにしっかり立ち、主のわざに常に励みなさに」。私たちは罪と戦い、福音宣教のために戦う。現実の戦いでは、迫害があったり、落胆や失望に襲われる時があるかも知れないが、最終的な勝利は神さまにある。それゆえ、主のわざに励むのである。各自が、自分にふさわしい仕方で主の証人として生きるのである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神は終末をもたらす方。そして私たちを復活させるお方
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちは復活し、死に勝利する。
- <勧め>主のわざに常に励むこと
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、復活の日に「死に対する勝利」を味わい、神に感謝する日が来るのはうれしいことです。この日を待ち望みます。死を越える希望を、色々な形で聖書は与えてくれるので、ありがたいです。死は終わりではなく、神の国への通過点であることを思います。いたずらに死を恐れないで生きることができることは感謝です。
- 今、コロナ禍にあって、感染することを人は恐れています。恐れの中にあっても、それを越える希望があることを信じて感謝します。感染しないように最大の注意を払いつつ、なお主のわざに励んでいきたいと思います。
- 今度の日曜は、久しぶりの説教奉仕です。緊急事態宣言が出されている大阪の教会での奉仕で、おそらく会衆は少ないと思います。インターネットを通して礼拝の中継がなされます。神さま、福音を語ることが出来るように導いてください。また今週もブログを書きます。死に対する勝利と題してクリスチャンの希望を書いてみたいと思います。福音の証しを書くことができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 説教とブログに対する導きを祈る