第一コリント 13章13節 信仰、希望、愛
2020年2月11日
(内容)
- 信仰と希望と愛はいつまでも残り、この中で愛が最も大いなるものである。
(黙想)
- ここでいきなり、信仰と希望が出てきたのはなぜかと悩んだ。また完全な時が来て、顔と顔を合わせて神を見る時、私たちは神を信じたことが間違っていなかったと確信し、神を崇め、神をたたえることになる。終わりの時が来て、御国に迎えられるなら、信仰や希望は必要なくなるのではないかと思う。人間を救うという神の救済の歴史は完成したのだから。でもパウロは、「信仰と希望は、愛と共にいつまでも残る」という。御国に迎えられてもなお信仰と希望は残るというのだろうか。
- 「完全なものが来たときには」(10節)を思い出さなければならない。突然、信仰と希望という言葉が出てきたように思えたが、そうではなかった。「完全なものが来たときには」という言葉の背後には、私たちは完全なものがくることを信じ、希望する者であることが言外に言われていた。完全なものが来るときをキリスト者は信じて待ち望むのである。
- この世がすべてではない。死んだらすべてがおしまいではない。キリスト者は顔と顔を合わせて神を見る時が来ることを信じ、希望するのである。神が神であることがすべての人に明らかになる時が来る。そして神はキリスト者の目から涙を拭い取ってくださるのである。
- キリスト者は今は一部しか知らなくても、その時ははっきりと知る。この世の歩みにおいて「こういうことが起きるのはなぜですか」と疑問に思ったこともすべて解消し、神をたたえることになる。そんな個人的なことだけではなく、この世界を神は確かにご支配し、導いておられることが分かる。そして神をたたえる。そのような時の来ることをキリスト者は信じ、希望する。この信仰と希望を抱いて、今を生きるのである。愛に生きるのである。キリスト者は終わりを見て今を生きる。
- 信仰と希望と愛の三つの中で、愛が最も大いなるものであるとパウロは語る。愛は、神とキリスト者の間の交わりを成立させる。信仰は神との交わりに生きることである。愛があってこそ、神との交わりが成立し、神を信じ、神に望みを抱くことが可能となる。信仰と希望の土台には愛があるので、愛が最も大いなるものと言われると思う。
- 御国が来た時、信仰と希望はなお残るのか。これは疑問だが、その時が来たら分かることと思うので、この疑問は疑問として残しておく。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>何よりも私たちが信ずべき方、希望をおく方、愛すべき方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>信仰と希望と愛が大切であること。地上の宝は、神の国に持っていくことができない。結局廃れてしまう。神に信を置き、神にあって望み、愛に生きること。
- <教え>愛に生きることが最高の道であるとあらためて教えられる。
- <教え>完全なものが来ることを待ち望み、喜びたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あらためてキリスト者の希望を教えられて感謝します。私たちは今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、完全なものがくる時、顔と顔を合わせて見るようになり、今は一部しか知らなくともはっきりと知るようになるとあります。あなたが神であることがはっきりと分かり、私たちはあなたをたたえることになると教えられます。そしてあなたを信じて歩んだことを深く感謝することを予想します。この終わりの時の希望を確かな希望として老いのときを生きていくことができるように導いてください。
- 天の父なる神さま、私たちは自分の身に起きることで不条理と思えることがあります。なぜ、という問いをあなたに向けたくなります。不条理のゆえに信仰から離れることもあります。不条理を受け入れつつあなたを信じて生きていくことが、自分をごまかしているように思えることもあります。それでもなお、あなたを信じて生きていくのは、私たちはおぼろげにしか見ることができず、一部しか知らないからです。でも完全なものがくる時、はっきりと知ることができること、不条理と思えることがそうではなかったと理解でき、あなたを賛美できることを信じ、望みます。
- 天の父よ、あらために信仰に生きることの幸いを知ります。今日のコリント書の聖句に関する説教を読んで、励ましを受けたいと思いました。説教集の中から探して読んでみたいと思います。
☆与えられ得た導き
- 説教集から説教を探す
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残念ながら見つからなかった。説教しにくいのか。