マタイ福音書 6章16~18節
2020年11月13日
(内容)
- 断食をするときは偽善者のように沈んだ顔をしてはならない。見せびらかしてはいけない。
(黙想)
- イエスはこれまで、施しをすること、祈ることにおいて偽善者のように人に見せびらかすように行ってはいけないと警告した。ここでは断食について、それを人に見せびらかすように行ってはいけないと戒める。自分の行いを人に見せびらかすのは偽善者の行為である。断食を行う場合は、断食をしていると人に気づかれないようにすることが大切である。
- 人に見せびらかし、人から賞賛を受けることをイエスは戒める。人に見せびらかすことをせず、父なる神に見ていただくことで満足すべきである。父なる神は隠れたところにおられる。隠れた行為を神は見ておられ、報いてくださる。
- 人には自分を認めてもらいたいとの欲求がある。それは根深い欲求である。自分はこれでいいのだと自分で自分を受け入れることができるからである。人は他者から認められて安堵し、自分を受け入れることができるという面がある。
- 断食は信仰の行為ではなく、自分を人に認めてもらう手段となる。信仰の行為が人に認めてもらうための手段になるとき、偽善が生まれる。偽善者は人から認められほめられるために施しや祈り、断食を行う。
- 神の報いとは何か。人に見せびらかさず、しかし神からの報いを受けることを求めるなら、それは断食を手段とすることになるのではないか。神からの報酬を求める手段。人から認めてもらうのと神の報いを得るのと何が違うのか。両方とも自分の行いを認めてもらう点では共通している。断食を手段としていることは共通している。
- 神の報いとは、人間の行いに対して与えられるものではない。ほうびではない。
- イエスは人に気づかれずに断食をすることを命じる。言い換えると断食をすることを喜ぶのである。断食にはそれを行う本来の目的がある。その目的を達成することは自分の努力に対する報いである。この報いを神の報いと考えることができる。「断食をしてよかった」となるなら、断食をした結果を恵みと考え、神が与えてくださった恵みと考えることができる。これは神が報いてくださったと考えることができる。神の戒めを行うのも同じだと思う。戒めを実行するとき、そこには祝福がある。戒めとは人を祝福する目的を持っている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>隠れたところにおられ、人間の隠れた行為を見ておられる方である。
- <御父>隠れた行為に報いてくださる方である。いつ、どのように報いてくださるのかは分からない。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>偽善者のように、自分が断食していることを人に見せびらかしてはいけない。
- <教え>断食には目的があるはずである。目的があるから断食をする。だから断食をし、目的を果たすことができたならそれを喜べばいい。それが神の報いと考えることができる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は断食を人知れずして行う人にあなたが報いてくださるとありました。あなたの報いは、人間の行為に対して報酬として与えられるものではなく、行為を行うことに祝福が伴い、それが報いであると教えられました。
- あなたの戒めを行うのも、それを行ってあなたに認められほうびとして祝福をいただくのではなく、あなたの戒めには祝福が含まれ、その戒めを実行した者にはその祝福が与えられる、それがあなたの報いであると教えられました。聖書を洞察で来たように思い、うれしく思いました。
- 父なる神さま、私はあなたによって召され、牧師として働いてきました。自分が牧師としてどれほどの働きをしたのか分かりません。この世では働きに応じた対価が支払われます。牧師としての働きは対価を求めるものではなく、牧師として奉仕できる、そのこと自体が祝福であると思いました。辛いことや苦しいこともありましたが、私は使命を与えられて有意義な人生を過ごすことができました。感謝します。
- 今日はこの感謝を献金で表したいと思います。次週の礼拝で、感謝献金を献げます。
☆与えられた導き
- 感謝献金を献げる。