ヨハネ福音書14章18~21節
2020年2月11日
(内容)
- イエスは、弟子たちをみなしごにしないし、また戻ってくると告げられた。そしてイエスと父が一つであることが、その日には「分かる」と言われた。さらに「わたしを愛する者にわたし自身を現す」と語られた。
(黙想)
- イエスはこれまで「あなたがたがついて来ることのできないところに行く」と語ってきた。つまり死ぬのであり、天の父のもとへ帰るのである。そのことは弟子たちはよく分かっていない。しかしイエスが弟子たちのもとからいなくなることを弟子たちは薄々感じていたにちがいない。そこでイエスは「あなたがたをみなしごにはしない。あなたがたのところに戻ってくる」と言い、弟子たちを安心させた。これは復活し、弟子たちのもとに現れることを意味していると思われる。
- 「かの日には」。イエスが復活して以降の日。弟子たちはイエスと父なる神が一つであることが「分かる」ようになるという。イエスが誰なのか、弟子たちが正しく理解することを意味する。さらにイエスの掟を受け入れ、それを守る人は、イエスを愛する人であり、イエスも父もその人を愛し、その人に「わたし自身を現す」とイエスは告げられた。
- ここには大切なことが述べられている。父なる神とイエスは一つである。イエスの掟を受け入れ、それを守る人はイエスを愛する人である。信仰者はイエスを愛する人なのである。この人は、イエスに愛され、父なる神に愛されるという。
- さらにイエスを愛する人にイエスは、ご自身を現すと言われた。「現す」、どういうことだろう。今回、一番心惹かれるのは、この「わたし自身を現す」である。これはどういうことか。
- 文字通り、生ける姿を示されるということであろうか。施設に在園する一人の教会員が「イエス様が私の枕元に現れた」と語ったことがある。それ以降その姉妹は、いつ死んでもいいと話していた。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたのだから、こういうことがあったとしても不思議ではない。しかしこのようなイエス・キリストの現れは、うらやましいが、真剣に求めようとは思わない。どちらかというと神秘的な体験なので、恵みとして与えられたら感謝であるが、これを是非与えられたいとは思わない。
- 昔、転入会したひとりの姉妹が「私はイエス様に出会いました」と語った。イエスに出会う、それは洗礼を受けたことを指していると思った。「どんな風に出会われたのですか」と聞いておけばよかったと思うが、その時は、ちょっと圧倒されて聞けなかった。私には「出会った」という体験はなく、きおくれしたと思う。
- 結局の所、イエスがどのように私たちに「ご自身を現されるのか」はわからない。私たちがイエスを愛し続ける中で、イエスがご自身を現されることを体験するだけである。そしてそれは忘れがたい経験となるのだろうか。
- 逆にイエスがご自身をどう私に現してくださったかを振り返ることも大切となるのではないか。イエスがご自身を現してくださったと思える体験があるかないか。イエスがそれとなく私たちにご自身を示された体験があるのかないのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)18,19節。イエスは復活して弟子たちのところへ戻ってくる方。
- (御子)20節。御子は御父と心をひとつにしている方である。
- (御父)21節。イエスを愛する人を愛される方。
- (御子)21節。御子を愛する人を愛する方。
- (御子)21節。御自分を愛する人に「ご自身を現される現す」と約束する
方。
☆神が私たちに求める生き方
- (約束)20節。イエスと父なる神が一つであることが分かる日が来る。
- (教え)21節。イエスの掟を受け入れ、それを守る人はイエスを愛する人である。
- (約束)21節。イエスを愛するなら、イエスはご自身を現す、と約束されている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様はイエス様を愛する者にご自身を現すと約束されました。これまでの歩みの中で、イエス様に出会った、と語る人に出会ったことがあります。人それぞれの体験だと思います。
- 復活されたイエス様がパウロにご自身を現し、パウロを使徒に召されました。イエス様がだれにご自身を現すのかは、イエス様の自由です。私たちが何かを行えば、イエスにご自身を現してもらえる資格を得るわけでもありません。イエス様がどのようにして私たちにご自身を現すのか、それを詮索するのは意味がないと思います。私たちにできることはイエス様を愛することであり、イエス様の掟を受け入れ守ることです。その結果としてイエスがご自身を現してくだされば、それを喜び感謝すればいいと思います。
- 天の父なる神さま、イエス様がご自身を現してくださったのに、私たちがそれを意識していないということがあるのではないかと思います。先日G教会での説教奉仕をしましたが、その説教の中で、「私たちはイエス様に捕らえられているけど、それを意識していないことがあるのではないか」と説教し、わたし自身のことも証しとして語りました。イエス様に捕らえられていると意識すること、それはイエス様がご自身を現されたから、私たちはイエス様に捕らえられるということになりますね。
- イエス様がご自身を現される、それは神秘的な事柄ではなく、むしろ私たち自身の変化、変革が結果としてもたらすことと言えるのではないでしょうか。自分自身の変化を思いめぐらし、その時、イエス様がどのようにご自身を現されたのか、思いめぐらしてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 自分の変化を思いめぐらし、ご自身を現されるイエス様を知る。
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- 教会には通っていたが信仰をもつ前、ある本でイエス・キリストは自分にプラスとなるものを求めて生きてはいなかった。むしろ自分を捧げ、自分を与え、さし出す歩みをされた。得ることなく、与える歩みだったと書かれていた。これを読んだとき、一種の啓示を受けたような気持ちになった。人は、与えることを通して、むしろ豊かになるのではないか、と思った。そのことは空しさから僕を救うきっかけとなった。何をすれば、何を得れば空しさから救われるのか、と考えていた僕に、獲得するのではなく、与えることにこそ、空しさからの救いがあると教えられた。主イエスに出会っていたと言えるかも知れない。
- 私は老いた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」。私にとってこの主イエスの言葉は、希望の言葉である。あたかも目の前でわたしに向かって語って下さる主イエスを想像してしまう。希望の言葉を語る主イエスが私の前に来て下さっていると受けとめている。