エフェソの信徒への手紙1章3~5節

2019年12月24日

(内容)

  • 天地を創造する前の神の御心が示されている。それはキリストにおいて、私たちを選ばれたという。私たちを聖なる者、神の子にしようとのみ心。

(黙想)

  • なんと驚くべき神の御心だろうか。天地創造の前に神は私たちを選ばれたという。天地創造の前から私たちは神さまの顧みの中にあるという。驚きを覚えると同時に、喜びが湧いてくる。大きな声を上げて叫びたいほどだ。途方もない言葉なので、信じがたい面もある。
  • 神は何のために私たちを選ばれたのか。私たちを聖なる者、汚れのない者にするためとある。「わたしが聖なる者であるように、あなたがたも聖なる者となりなさい」と聖書のどこかにあった。
  • 聖なる者とは、どのような人のことを言うのだろうか。これははっきりさせた方がよい。「聖なる者」という言葉で、人は様々なイメージを描く。神が考える聖なる者とは、どのような人のことを言うのか。自分の考えはあるが、今一度聖書から教えられたいと思う。
  • 教会の歴史の中で聖人と呼ばれる人がいる。僕は聖人ではないので、聖人とはどのような人のことを言うのかわからないが、よこしまな思い、汚れた思いを決して抱かない、純粋に心が汚れていない清らかな人を聖人というのだろうか。思いというのは湧いてくるのであり、湧いてくることを私たちはコントロールできない。大事なのは、そのような思いが湧いてきたらどう処理するかが問題だと僕は考えている。そのような思いが湧いてこない人間にはなれないが、聖霊の助けを得て、そのような思いに左右されない人間には、なることができると信じている。
  • さらにイエス・キリストによって私たちを神の子にしようと神はお定めになった。イエス・キリストを信じる者は、神の子である。だから私たちは祈りにおいて、天に父よと呼びかける。
  • 僕はこのエフェソ書のこの箇所を何度も読んできた。しかし、読んだだけで通り過ぎてきたことが多かった。こんな驚くべきことが書かれているのに、立ち止まることなくとおり過ぎてきた。ディボーションもしたはずである。
  • 思い出す聖句がある。

 「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(コリント二4:4)。

  • 聖霊が私の心を照らしてくださらない限り、この大切な聖句を私たちは見過ごしてしまうのだ。同時のこの箇所のような聖句をどう受けとめたらよいのかわからないという面もある。天地創造の前の神の御心は分かった。じゃあ私はどうしたらいいの、という問が生まれるにちがいない。自分の現実を見て、自分は罪深いと感じたりして、この聖句は理想を述べたものであり、それこそ聖人と呼ばれる人のための言葉であると考える人もいるだろう。自分には関係のない言葉としてしまうのである。
  • 僕は、素直に受けとめたいと考える。自分はキリスト者となった。自分は何を目指すのか。その目標がここに示されている、と受けとめる。信仰者として生きる意味も示される。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御父> 神は天地創造の前に私たちを愛した方である。
  • <御父> 神は、私たちが聖なる者、汚れのない者となるように、私たちを選ばれた方である。
  • <御父> イエス・キリストによって私たちを神の子にしようと私たちを選ばれた方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め> この神の御心を受け入れること。信じること。
  • <勧め> そのためにこの神の御心を思いめぐらすこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、このエフェソ書の聖句と出会わせてくださり感謝します。何度となくよんできましたが、見過ごしたというか、通り過ぎたことが多かったですが、ここの聖句の大切さに気づきを与えられ感謝します。
  • 今日、この箇所を読み、「聖なる者」とはどのような人のことを言うのか、知りたいと思いました。詩編51で姦淫を犯したダビデはあなたに「清い心をわたしのうちに創造してください」と祈りました。清い心とはどのような心をいうのでしょうか。汚れのない心、よこしまな思いのない心、そのような心を指すのでしょうか。
  • イエス様は「心の清い人は幸いである。その人は神を見るであろう」と語られました。心の清い人とは、あなたの御心に生きようとする心ではないかと思っておりますが、聖書は、どのような心を清い心と呼んでいるのか、調べてみたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
  • 清い心とはどのような心か、聖書を調べる。