ヨハネ福音書 12章31~33節
2019年12月19日
(内容)
- イエスはご自分の死の意味について語っている。何のために死なれるのか、語っておられる。
(黙想)
- ヨハネ福音書においてイエスの死は、罪の償いのための犠牲の死ではない。福音書はそれぞれの仕方でイエスを証ししている。
- イエスが上げられる時、つまり死ぬ時、それはこの世が裁かれる時であるという。どういうことか。
- ヨハネ3章17節にこう書かれている。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神の御心は世を救うためであるが、この救いを受け入れないということは、結果的に自分の身に裁きを招くことになる。18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」ともある。
- 9章の最後でイエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
- イエスを受け入れるか否か、それによって救いに入れられるか裁かれ滅びに至るかが決まる。イエスが死ぬということは、当時の人々からすれば、自分のイエスに対する態度が決定的になったということになる。ファリサイ派やユダヤ人とされる人たちはイエスを拒んだという結果と共にそれに伴う裁きを自分の身に招くことになる。
- 人がイエスを信じる機会は、いつまでもあるわけではない。機会のある時に信じなければならない。「光のあるうちに、「光を信じなさい」(12:36)。
- 「今、この世の支配者が追放される」。イエスの死は、この世の支配者を追放するという意義、意味がある。これはヨハネ福音書におけるイエスの死の意義といえると思う。これはどういうことか。
- この世の支配者と言えば、悪魔、サタンを指している。8章には「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって」とイエスは語っている。人類は二分される。悪魔の支配下にあるか神の支配下にあるか。神の言葉を聞くか、聞かないか。神の言葉を聞かないで生きるとは、裁きを招くことになる、滅びに至ることをイエスは語っている。イエスは人類を二分する方でもある。信じる者と信じない者、救いに入れられる者とそうでない者。イエスの死において、この世にくさびが打ち付けられたことになる。
- さらにイエスが死に天に上げられる時、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われる。これはイエスが救い主であることを宣言した言葉となる。
- ヨハネ福音書において、イエスは神を知らせるために来られた。そのために神に遣わされ、神のもとに帰るのである。その死は、迫害の死であり、悪魔的勢力の勝利を告げるように見えるが、真実はその逆であり、イエスはその使命を全うして死んだことになる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)御子は救い主としておいでになった。その死において、この世の支配者を裁かれた。その死においてすべての人を救いに招かれた。
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)イエスを受け入れること。イエスが語ったことを受けとめること。イエスが誰かを知り、そのイエスを羊飼いとし、従っていくこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は、短い聖句を思いめぐらしました。イエス様の死について語る聖句なので、ここにとどまり黙想することができて感謝です。ヨハネ福音書はイエス様の死をどう考えているのか、理解できたように思えてうれしく思います。
- イエス様の死は、罪を償うための犠牲の死、という理解は多くの信仰者が持っていますが、ヨハネが伝えるイエス様の死の理解はほとんど知られていないように思います。今日は、これを伝えたいと思います。ブログで伝えたいと思います。聖書が分かる、うれしいことですね。聖霊のお導きを感謝します。
☆与えられた導き
- ヨハネにおけるイエスの死の理解をブログに書く