ヨハネ福音書 7章37~39節
2019年9月12日
(内容)
- 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」イエスは人々を招いた。
(黙想)
- イエスはなぜ「渇いている人だだれでも」との招きの言葉を語ったのだろうか。何に対する渇きなのだろうか。
- 「渇き」ということで思い出すのは詩編42。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」。
- 詩編63:2「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています」。
- 詩編143:6 「あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます」。
- 「渇いている人」とは、神ご自身に渇いている人を指している。
- アウグスティヌス
「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』より)。
- ヨハネ福音書のこれまでの箇所でイエスが語られたことは、ご自分がいかなる者か、である。ご自分が神から遣わされた者であり、イエスを信じる者は永遠の命を得ると教えておられた。この箇所で初めて、イエスは人々に呼びかけている。「渇いている者はわたしのもとに来なさい」。
- マルコ福音書では、、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、宣教を開始された。
- マタイも同様で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を開始された。
- ルカ福音書では、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とイザヤ書を引用し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣教を開始されている。
- ヨハネ福音書におけるイエスの宣教開始の言葉とは何か。もしかしたら、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」との呼びかけではないだろうか。ヨハネ福音書を読み、このことを今日は確かめたい。
神の導き
・ヨハネ福音書を読み、確認する。
ヨハネ福音書を通読して
- この箇所に至るまでのヨハネ福音書の内容は、イエスが行ったしるしと、しるしをめぐってのユダヤ人たちとの折衝が主な内容。その中で、イエスはご自分が神から遣わされたことを繰り返し語っている。イエスが神から遣わされたことを信じる、それがイエスを信じることである。
- ヨハネ福音書はイエスの活動を時間的に追って書いてはいない。イエスが誰であるのかをしるしをめぐってユダヤ人たちとの折衝を通して語ることに重きが置かれてきた。
- 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。
- この呼びかけは、イエスの宣教開始の呼びかけとは言えないが、イエスが多くの人に語った呼びかけの言葉であり、招きの言葉であり、独特な呼びかけである。人間の真の困窮は神を見失っていることにあることを教えるイエスの呼びかけといえるのではないか。アウグスティヌスが語るように、僕も神に立ち帰って、渇きが癒やされた。