ヨハネ福音書 7章40~44節
2019年9月19日
(内容)
- 群衆の間にイエスをめぐって対立が生じた。イエスに対する評価が分かれた。イエスの言葉を聞いてイエスをメシアと考える人と、「聖書によれば」と語りつつイエスを信じない群衆がいた。
(黙想)
- 祭りの終わりの日にイエスが大声で語られたことを聞いた群衆の中には、イエスのことを「本当にあの預言者だ」「この人はメシアだ」という人々がいた。他方で、「聖書にはメシアは、ダビデの子孫でベツレヘムから出る」と書いてあり、イエスはガリラヤ出身だから、メシアであるはずがないと、イエスを信じない人々がいた。
- 信仰者は物事を考えるとき、「聖書に書いてあるから」と聖書を根拠におく。それは聖書に基づいて生きようとするからである。この箇所では、聖書によればメシアであるはずがないと群衆は語っているが、イエスはメシアである。「聖書によれば」との判断は間違っていたことにある。「聖書によれば」と聖書に基づいて考えることが不確かを感じる。
- イエスを信じた群衆は、イエスの語ることを聞いて、イエスをメシアだと言った。
- 聖書に基づきイエスを信じない人々は、イエスが語ったことをどう受けとめたのか。それは書かれていない。おそらくイエスが語ったことは聞き流したのであろう。結局信じなかった群衆は上辺しか見ていない。信じない理由として、聖書を利用している。聖書に基づいて生きていて、聖書に従いイエスを信じなかったのではない。上辺で判断をし、イエスを信じない自分を正当化するために聖書を利用しているに過ぎないのではないか。
- イエスと向き合う、聖書を向き合うとき、向きあう自分に注意しなければならない。自分を正当化する気持ちが働いているのか、それとも心からイエスに従おうとする気持ちでいるのか。どちらの立場でも、聖書にこう書いてあるからと語ることはできる。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)42節。上辺でものを見てはいけない。自分の主張を通すために聖書を利用するのはよくない。
- (勧め)40節。イエスが語ること、聖書が語ることと向き合うときは、正直になるべきである。聖書の言葉をきちんと理解する努力が必要。さらに自分の心も見なければならない。神に対して従順か否か、神に反抗する自分がいるか否かを見なければならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝をします。聖書は、自分の主張を通すために利用できることを教えられました。昔教会員から、「人はなぜ嘘をつくか考えたことがありますか」と言われたことがあります。人は自分を正当化したいために嘘をつくことを知りました。聖書を読むとき、自分がどんな心でいるのか、御言葉に対する自分の心の反応が大事であると教えられました。
- 自分がなぜ聖書を読み続けるのか、それは御言葉こそ、私の道の光、私の歩みを照らす光だからです。だから読まずにはおれません。これは正直な私の気持ちです。
- 聖書に向き合う自分の心を問われます。一つ分かっていることは、終末の事柄を信じることについてです。信じられるか否か、どうしたら信じられるようになるのか、という問いはよくないと思うようになりました。終末の事柄は、今と関係していることを理解することが大事で、今をどう生きるか、それが終末を信じることにつながってくると思っています。
終末について、今一度学んでみたいと思いました。まずはマクグラスの本で終末の部分を読むことにします。
☆与えられた導き
- マクグラスの本を読む